森を見て木を見失ってはいないか?
ふと、そんなことを考えた。
とかく、精神医療というカテゴリには不信と否定がつきまとうことが少なくない。それもそのはず、医療とは合理性を追求したものであるはずなのに精神科医療は非合理的であることが多いからだ。
その最たる例が、精神科の薬物療法ではないだろうか?
画像、機器、データを用いて高い精度の根拠を掲げて薬物が選択され投与される他科と違い、精神科での薬物選択は精神科医の見立てひとつ。
仮に薬物がアンマッチだったとしても、アンマッチな理由が判明することによってさらに薬物選択の精度が上がるであろう他科は、最短かつ効率的に治癒に向かわせるという視点でまさに合理的であるし、合理的であればあるほど悪化や死というリスクから遠ざかる。
他方、精神科医療で行われる薬物療法は合理的であるとは思い難い。
「きつい副作用によって混乱する様態が精神症状の悪化なのか副作用による医原的なものかの判断は、正直、精神科医でもわからない」と、家族である僕に発言する医師がいた。
目には見えぬ疾患源に対してフローチャート的あるいは当該医師固有の根拠によって行われる薬物療法に、一般人として精神科医療の合理性を感じることはない。
合理的でないことは不信と否定感情につながるものだ。
医療という大きなくくりでイメージしてみた場合。とりわけ自国の医療技術を信頼している日本人は〝病院に行けば助けてくれる〟的な固定観念を持っている。
それに応えてくれるようにして、痛みや苦しみという自己では解決できない問題を合理的な知識と技術、経験、そして使命感という優しさで請け負ってくれる医療人のおかげで僕らは健康でいられると言っても過言ではない。
また訪れる全ての患者に迅速で格差なく対応するために、治療以外の業務項目にはふんだんに取り入れられた情報技術の躍進も印象強い。
――合理的で安心できる日本の医療。そんな国で生きている安心感が先ほどの固定観念に結びついているのだと思う。
ふたたび、精神科医療に視点を向けてみる。
歴史的に振り返れば精神科医療とはもともと精神障害者を社会から隔絶することから始まっている。その流れを人権擁護と福祉と倫理が尽力することによって、近年、ようやく医療という単語を背負うことのできる精神科医療にたどり着いたのではないか。
がしかし、その間に集積した非道と偏見と誤解は人々に精神科医療の負の印象ばかりを植え付けた。
そのせいか、精神医療と向精神薬に人生を救われたエピソード以上に、精神医療への憎悪感情はネットのキャッシュにもあふれている。
どこかなにか安心できない……それが人々にとっての精神医療へのシンプルな印象ではないかと思う。
それゆえに、医療全体を見渡せば精神科には特有の孤立感が、ある。
――孤立感?
それが一般人の印象だけであれば問題はない。ところが、身体合併症で救急搬送される患者が精神疾患患者だから〝対応できない〟としてたらい回しにされたあげくに身体疾患の処置が遅れて死亡した例などを振り返ると印象だけの問題でもなかろう。
医療側の内的事情が山積みであったとしても、精神科医療とは横のつながりが断絶された孤立した部署だと風評されてもしかたのないことだ。
さて、そんな精神医療について患者家族の視点で〝森〟にたとえてみる。
森の中に立ち並ぶ無数の木々たち。そしていろんな木がある。空から差し込む光に力強く枝葉を向ける木、枝葉はついているものの根っこを見れば腐っている木。どの木の枝にも鳥たちはたたずみ空を見上げるようにさえずりを繰り返している。
精神医療という名の森で、僕はふたつの木を知った。
ひとつめの木は、それまでに蓄えられた養分で枝葉を伸ばしているように見えてもやがて朽ちていくであろう腐った木だ。
昭和の名残を感じずにはいられないが、行き場のない重症患者には必要悪ともいえる役回りの精神科病院。家族の不安と疑問に対して「ここは精神病院なんですから…」と、即答する病院に希望を感じることはない。なぜなら、病院の役回りは治療よりも保護であったから。
「あんなの、作業療法って言ったって…」と、外側から施錠される面会室には他家族の不満が漏れていた。
過鎮静…。妻の薬剤情報を取り寄せてみてcp換算しようとしつつこわくて出来なかった記憶もある。なぜなら数値を知ったところで何もしてやれない自分の無力さを知れば、悔しさで自分がつぶれてしまいそうだったから。
ふたつめの木は、地にしっかりと根を広げながらスクッと立つ木だ。
情緒的にうなだれるだけだった家族を医療チームの一員として呼び込みつつ治療を理解させながら希望を捨てさせない病院だった。
〝大丈夫です〟という言葉がある。
その言葉をかけてくれたのはこの病院だ。逆に、前院ではいつも〝大丈夫です〟は〝わかりません〟に置き換わっていた。
「妻は……?」
「良くなるかどうかなんてわかりません」
それに対して
「妻は……?」
「大丈夫です心配いりません」
と発言する病院の違い。ふりかえればやはり、木は違った。
精神医療という名の森。
どっちだと思う? と、どこかの誰かに二択の質問をすれば信頼ではなく不信と答えるのが常ではないか?
そんな印象が根強いのは、何十年とかかって育った森の木々たちが精神医療の非道と偏見と誤解を肥やしとして育ったからだ。
けれど木がやがて朽ちていくように、疾患で苦しむ患者に資することを使命としない病院はやがて淘汰されていくものだ。
精神科医療と聞けば反射的に悪感情を抱く者の心に刻まれた悲しみを軽んじてはならないが、森の中の木をしっかりと見ることも大切だ。
精神医療という名の森。
腐った木ばかりではない。しかし、腐った木も存在する。
それを見極めるのは家族の力だ。
患者が鳥だとすれば、使命と愛という土に根を張る木の枝で羽を休ませてやりたい。
そして社会という空に飛び立って欲しい。
ふと、そんなことを考えた。
とかく、精神医療というカテゴリには不信と否定がつきまとうことが少なくない。それもそのはず、医療とは合理性を追求したものであるはずなのに精神科医療は非合理的であることが多いからだ。
その最たる例が、精神科の薬物療法ではないだろうか?
画像、機器、データを用いて高い精度の根拠を掲げて薬物が選択され投与される他科と違い、精神科での薬物選択は精神科医の見立てひとつ。
仮に薬物がアンマッチだったとしても、アンマッチな理由が判明することによってさらに薬物選択の精度が上がるであろう他科は、最短かつ効率的に治癒に向かわせるという視点でまさに合理的であるし、合理的であればあるほど悪化や死というリスクから遠ざかる。
他方、精神科医療で行われる薬物療法は合理的であるとは思い難い。
「きつい副作用によって混乱する様態が精神症状の悪化なのか副作用による医原的なものかの判断は、正直、精神科医でもわからない」と、家族である僕に発言する医師がいた。
目には見えぬ疾患源に対してフローチャート的あるいは当該医師固有の根拠によって行われる薬物療法に、一般人として精神科医療の合理性を感じることはない。
合理的でないことは不信と否定感情につながるものだ。
医療という大きなくくりでイメージしてみた場合。とりわけ自国の医療技術を信頼している日本人は〝病院に行けば助けてくれる〟的な固定観念を持っている。
それに応えてくれるようにして、痛みや苦しみという自己では解決できない問題を合理的な知識と技術、経験、そして使命感という優しさで請け負ってくれる医療人のおかげで僕らは健康でいられると言っても過言ではない。
また訪れる全ての患者に迅速で格差なく対応するために、治療以外の業務項目にはふんだんに取り入れられた情報技術の躍進も印象強い。
――合理的で安心できる日本の医療。そんな国で生きている安心感が先ほどの固定観念に結びついているのだと思う。
ふたたび、精神科医療に視点を向けてみる。
歴史的に振り返れば精神科医療とはもともと精神障害者を社会から隔絶することから始まっている。その流れを人権擁護と福祉と倫理が尽力することによって、近年、ようやく医療という単語を背負うことのできる精神科医療にたどり着いたのではないか。
がしかし、その間に集積した非道と偏見と誤解は人々に精神科医療の負の印象ばかりを植え付けた。
そのせいか、精神医療と向精神薬に人生を救われたエピソード以上に、精神医療への憎悪感情はネットのキャッシュにもあふれている。
どこかなにか安心できない……それが人々にとっての精神医療へのシンプルな印象ではないかと思う。
それゆえに、医療全体を見渡せば精神科には特有の孤立感が、ある。
――孤立感?
それが一般人の印象だけであれば問題はない。ところが、身体合併症で救急搬送される患者が精神疾患患者だから〝対応できない〟としてたらい回しにされたあげくに身体疾患の処置が遅れて死亡した例などを振り返ると印象だけの問題でもなかろう。
医療側の内的事情が山積みであったとしても、精神科医療とは横のつながりが断絶された孤立した部署だと風評されてもしかたのないことだ。
さて、そんな精神医療について患者家族の視点で〝森〟にたとえてみる。
森の中に立ち並ぶ無数の木々たち。そしていろんな木がある。空から差し込む光に力強く枝葉を向ける木、枝葉はついているものの根っこを見れば腐っている木。どの木の枝にも鳥たちはたたずみ空を見上げるようにさえずりを繰り返している。
精神医療という名の森で、僕はふたつの木を知った。
ひとつめの木は、それまでに蓄えられた養分で枝葉を伸ばしているように見えてもやがて朽ちていくであろう腐った木だ。
昭和の名残を感じずにはいられないが、行き場のない重症患者には必要悪ともいえる役回りの精神科病院。家族の不安と疑問に対して「ここは精神病院なんですから…」と、即答する病院に希望を感じることはない。なぜなら、病院の役回りは治療よりも保護であったから。
「あんなの、作業療法って言ったって…」と、外側から施錠される面会室には他家族の不満が漏れていた。
過鎮静…。妻の薬剤情報を取り寄せてみてcp換算しようとしつつこわくて出来なかった記憶もある。なぜなら数値を知ったところで何もしてやれない自分の無力さを知れば、悔しさで自分がつぶれてしまいそうだったから。
ふたつめの木は、地にしっかりと根を広げながらスクッと立つ木だ。
情緒的にうなだれるだけだった家族を医療チームの一員として呼び込みつつ治療を理解させながら希望を捨てさせない病院だった。
〝大丈夫です〟という言葉がある。
その言葉をかけてくれたのはこの病院だ。逆に、前院ではいつも〝大丈夫です〟は〝わかりません〟に置き換わっていた。
「妻は……?」
「良くなるかどうかなんてわかりません」
それに対して
「妻は……?」
「大丈夫です心配いりません」
と発言する病院の違い。ふりかえればやはり、木は違った。
精神医療という名の森。
どっちだと思う? と、どこかの誰かに二択の質問をすれば信頼ではなく不信と答えるのが常ではないか?
そんな印象が根強いのは、何十年とかかって育った森の木々たちが精神医療の非道と偏見と誤解を肥やしとして育ったからだ。
けれど木がやがて朽ちていくように、疾患で苦しむ患者に資することを使命としない病院はやがて淘汰されていくものだ。
精神科医療と聞けば反射的に悪感情を抱く者の心に刻まれた悲しみを軽んじてはならないが、森の中の木をしっかりと見ることも大切だ。
精神医療という名の森。
腐った木ばかりではない。しかし、腐った木も存在する。
それを見極めるのは家族の力だ。
患者が鳥だとすれば、使命と愛という土に根を張る木の枝で羽を休ませてやりたい。
そして社会という空に飛び立って欲しい。