統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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精神医療の光と影 | 森の中の木

森を見て木を見失ってはいないか?
ふと、そんなことを考えた。

とかく、精神医療というカテゴリには不信と否定がつきまとうことが少なくない。それもそのはず、医療とは合理性を追求したものであるはずなのに精神科医療は非合理的であることが多いからだ。
その最たる例が、精神科の薬物療法ではないだろうか?

画像、機器、データを用いて高い精度の根拠を掲げて薬物が選択され投与される他科と違い、精神科での薬物選択は精神科医の見立てひとつ。
仮に薬物がアンマッチだったとしても、アンマッチな理由が判明することによってさらに薬物選択の精度が上がるであろう他科は、最短かつ効率的に治癒に向かわせるという視点でまさに合理的であるし、合理的であればあるほど悪化や死というリスクから遠ざかる。

他方、精神科医療で行われる薬物療法は合理的であるとは思い難い。
「きつい副作用によって混乱する様態が精神症状の悪化なのか副作用による医原的なものかの判断は、正直、精神科医でもわからない」と、家族である僕に発言する医師がいた。
目には見えぬ疾患源に対してフローチャート的あるいは当該医師固有の根拠によって行われる薬物療法に、一般人として精神科医療の合理性を感じることはない。

合理的でないことは不信と否定感情につながるものだ。
医療という大きなくくりでイメージしてみた場合。とりわけ自国の医療技術を信頼している日本人は〝病院に行けば助けてくれる〟的な固定観念を持っている。
それに応えてくれるようにして、痛みや苦しみという自己では解決できない問題を合理的な知識と技術、経験、そして使命感という優しさで請け負ってくれる医療人のおかげで僕らは健康でいられると言っても過言ではない。
また訪れる全ての患者に迅速で格差なく対応するために、治療以外の業務項目にはふんだんに取り入れられた情報技術の躍進も印象強い。
――合理的で安心できる日本の医療。そんな国で生きている安心感が先ほどの固定観念に結びついているのだと思う。


ふたたび、精神科医療に視点を向けてみる。
歴史的に振り返れば精神科医療とはもともと精神障害者を社会から隔絶することから始まっている。その流れを人権擁護と福祉と倫理が尽力することによって、近年、ようやく医療という単語を背負うことのできる精神科医療にたどり着いたのではないか。
がしかし、その間に集積した非道と偏見と誤解は人々に精神科医療の負の印象ばかりを植え付けた。
そのせいか、精神医療と向精神薬に人生を救われたエピソード以上に、精神医療への憎悪感情はネットのキャッシュにもあふれている。

どこかなにか安心できない……それが人々にとっての精神医療へのシンプルな印象ではないかと思う。
それゆえに、医療全体を見渡せば精神科には特有の孤立感が、ある。
――孤立感?
それが一般人の印象だけであれば問題はない。ところが、身体合併症で救急搬送される患者が精神疾患患者だから〝対応できない〟としてたらい回しにされたあげくに身体疾患の処置が遅れて死亡した例などを振り返ると印象だけの問題でもなかろう。
医療側の内的事情が山積みであったとしても、精神科医療とは横のつながりが断絶された孤立した部署だと風評されてもしかたのないことだ。


さて、そんな精神医療について患者家族の視点で〝森〟にたとえてみる。
森の中に立ち並ぶ無数の木々たち。そしていろんな木がある。空から差し込む光に力強く枝葉を向ける木、枝葉はついているものの根っこを見れば腐っている木。どの木の枝にも鳥たちはたたずみ空を見上げるようにさえずりを繰り返している。


精神医療という名の森で、僕はふたつの木を知った。

ひとつめの木は、それまでに蓄えられた養分で枝葉を伸ばしているように見えてもやがて朽ちていくであろう腐った木だ。
昭和の名残を感じずにはいられないが、行き場のない重症患者には必要悪ともいえる役回りの精神科病院。家族の不安と疑問に対して「ここは精神病院なんですから…」と、即答する病院に希望を感じることはない。なぜなら、病院の役回りは治療よりも保護であったから。
「あんなの、作業療法って言ったって…」と、外側から施錠される面会室には他家族の不満が漏れていた。
過鎮静…。妻の薬剤情報を取り寄せてみてcp換算しようとしつつこわくて出来なかった記憶もある。なぜなら数値を知ったところで何もしてやれない自分の無力さを知れば、悔しさで自分がつぶれてしまいそうだったから。

ふたつめの木は、地にしっかりと根を広げながらスクッと立つ木だ。
情緒的にうなだれるだけだった家族を医療チームの一員として呼び込みつつ治療を理解させながら希望を捨てさせない病院だった。

〝大丈夫です〟という言葉がある。
その言葉をかけてくれたのはこの病院だ。逆に、前院ではいつも〝大丈夫です〟は〝わかりません〟に置き換わっていた。
「妻は……?」
「良くなるかどうかなんてわかりません」
それに対して
「妻は……?」
「大丈夫です心配いりません」
と発言する病院の違い。ふりかえればやはり、木は違った。

精神医療という名の森。
どっちだと思う? と、どこかの誰かに二択の質問をすれば信頼ではなく不信と答えるのが常ではないか?
そんな印象が根強いのは、何十年とかかって育った森の木々たちが精神医療の非道と偏見と誤解を肥やしとして育ったからだ。

けれど木がやがて朽ちていくように、疾患で苦しむ患者に資することを使命としない病院はやがて淘汰されていくものだ。

精神科医療と聞けば反射的に悪感情を抱く者の心に刻まれた悲しみを軽んじてはならないが、森の中の木をしっかりと見ることも大切だ。
精神医療という名の森。
腐った木ばかりではない。しかし、腐った木も存在する。
それを見極めるのは家族の力だ。
患者が鳥だとすれば、使命と愛という土に根を張る木の枝で羽を休ませてやりたい。
そして社会という空に飛び立って欲しい。


統合失調症 | 他者の体験から生まれる知恵と勇気

統合失調症とは躁鬱病とならび、二大内因性精神病のひとつである脳の機能障害です。
内因性とは、外因性でもなく心因性でもない先天的な遺伝要因や体質により発病するものだという考え方ですが、統合失調症の原因は先天的な要因だけで説明できるものでもなく、生育環境、対人関係、生活環境等による心理的ストレスなどの後天的な要因も複雑に絡み合っていると考えられています。つまり、統合失調症の発病原因を特定することは可能ではなく、内因性という言葉には原因不明性という意味も含まれているのです。


統合失調症患者の妄言ではない!精神科病院の転院を決断させたのは直感だった

精神科病院はどこでも同じなのか?

人は問題にぶち当たったとき、感じることと考えることを同時に行いながら、もがき苦しむ。
感じたことと考えることが一致しなければ葛藤を極め、もはや自分ひとりではどうにもできない混乱を生じてしまうものだ。

感じたことを結論と行動につなげるのか? それとも自らの直感に後ろめたさが残ったとしても考え抜いた結果を選択するのか?
――妻の転院に関して、僕は直感に全てを託した。
だがそれは、論理的、合理的、客観的判断を超えるだけの直感の精度があったからだと言える。


僕は、精神科病院はどこも同じ。とは思わない。
むしろ、病院が違えば、精神科医が違えば、薬物療法の効果は変わるとさえ思っている。だから、同種同用量の向精神薬を処方されても治療環境次第では光も影も差すことだろう。


――妻が精神科救急の手配で入棟した先は、患者と病棟職員以外の者は一切入室することが出来ない閉鎖病棟だった。
もっとも、閉鎖病棟ならどの病院であっても家族の出入りが禁じられているのではなく、たまたまその病院の運営ルールがそうであったという話ではあるが。
だから、病棟の中での妻の様子は担当医からの話や看護記録から引用される情報からでしか知ることはできない。
このとき僕が悶々と悩み続けた問題とは、この病院が妻にとって適切な治療空間であるかどうかだった。

家族にもらす患者の気持ちに共感してやりたい

〝ここで過ごすことがこわい〟
面会を重ねるごとに強まる妻のSOSに僕は揺れていた。
僕に〝こわい〟ともらすことが事実なのか妄言なのか? 病院側の視点に基づく家族向けの情報開示から判断することは難しい。
「そうですか、病気だから仕方在りませんよね」と同調できれば簡単だが、途切れ途切れに僕に何かを伝えようとする、カケラのような妻の言葉は僕に強い引っかかりを感じさせた。
病院側が言う、精神症状が強まり正常な現実検討能力を欠いた患者の言い分に戸惑うことは治療の継続にはならぬという意見に従えば心を鬼にして治療に専念させる必要があるが、もし、治療には値しない劣悪な病棟環境であるなら……それも治療だと考える病院には失礼だとしてもすぐに〝助け出してやらなければならない〟
そして治療に値する環境に移してやらなければ、人生を単位とする入院生活につながってしまう危惧に強く強く駆られた。

言葉のサラダ状態でメッセージを発信する妻から、転院の決め手となる論理的な理由は見いだせない。
また、環境の変化による症状悪化のリスクを考えれば転院は合理的とは言いづらい。
それでは客観的な意見は当該病院の意見に等しいのだからおのずと答えは決まっている。

〝正解がわからない――〟わからない、わからない。僕はすでに、ひとりではどうにもできない混乱を生じていた。
親以上に人生の長い時間を共に過ごす夫婦であるのに、彼女に対する直感が、医療に怖じ気づいたととでも言おうか、答えを探せば探すほど、僕は妻への自信を失っていったように思う。自信とは、どんなときでも君の味方だと言い切れる自信だ。

精神科医の見立てと家族の直感

そんなぬかるみでもがいていた僕だったが、あることに気付いた。
それは、精神科医療は統合失調症を知っていても妻のことは知らないということだった。〝医師は医療の専門家、家族は患者の専門家〟どこかで聞いたような言葉は、僕を強く戒める。

看護記録に書かれていた病棟での様子と面会時に僕が感じ取ることについて、疑いを差し引いても残ってしまう誤差と矛盾。そして、妻の〝人〟を誰よりも知るのは医師ではなくこの自分であるという自信。
それが僕の直感の……精度だった。


統合失調症の母親と子供心

統合失調症の患者数は約80万人程度と推計されている(厚労省データ)
とはいえ、約80万人の内訳は通院・入院中、つまり治療中患者を統計化したものだ。




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