統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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家族支援は求められるものでなく働きかけるものではないか?

〝近づきすぎれば巻き込まれる〟

統合失調症を発症、日常という作業を積み重ねていく過程において、患者と家族は互いにもっとも身近な存在だと言える。
身近だというのは、両者の心理的距離感に加えてひとつ屋根の下で暮らしているのだからいつもそばにいるという、ふたつの意味で身近だ。

〝近づきすぎれば巻き込まれる〟とは、家族が統合失調症患者との距離感を詰めすぎてしまえば心理的に巻き込まれてしまう可能性が高くなるということ。
例えば、激しい被害妄想が出現する患者とその家族がいたとする。
家から一歩でも出れば近隣~世間全体と領域を問わない他者から悪口を浴びせられると訴えられた家族は、患者との距離感が詰まれば詰まるほど症状であることを見失い、いや、症状に試されるかのように見失わされてしまう。

僕も、妻の激しい被害妄想には幾度も巻き込まれた経験がある。
妻に悪口を浴びせる対象はお隣の家人であったり偶然すれ違ったどこの誰ともわからない相手であったりと、次々に相手を変えてゆく。
僕はそんな妻が心配で、自分だけは彼女のことを理解してやろうと一生懸命になるのだが、それはつまり、妻との距離感をどんどん詰めていったことに他ならない。
すると、不思議なもので健常者の僕も病的妄想の世界に巻き込まれ「何もしていない彼女のことを悪く言いやがって……」となるのだった。
そしてまた、飲んだとて病的な被害妄想がいっこうに改善しない向精神薬。
こんなもの飲んでるから治んない!
そう妻から言われると、僕の頭から病識欠如と服薬拒否の二つの語句は消え、効かぬなら変薬の相談を主治医に持ちかけるといった建設的思考も見当たらず、さっきの被害妄想巻き込まれと相まって主治医への被害的不満をつのらせる始末……。
患者同様に現実と病的妄想の区別がぼやけてしまう、巻き込まれた自分だった。
ただし、ぼやけても一時的である僕は「ダメだダメだ、なにを一緒になってイライラしてるんだ」と自分を諭すが、ある意味で現実と妄想が妻のように同一でない僕の場合、現実にバックした時の反動は強い疲労感となって僕を襲った。

一方で、相変わらずの妄想劇を繰り広げる妻。
妻と僕は、まるで病魔の手のひらで踊らされているような二人、だっただろう。

だがこのような混乱期を踏んだことによって、窮してバラバラになってしまった僕の思考は整理され、疾患症状に打たれ強いものとなった。
言うなれば、僕の混乱期は〝病魔ではなく病気、異常ではなく症状〟といった視点で妻と向き合えるようになるための心理的調整期間とも言えただろう。
加えて、僕は自らの混乱を外部の他者(専門家)に聴いてもらうことによって、他人の冷静さがカンフル剤になった気もする。


ところで、冒頭で書いたように家族とはひとつ屋根の下で暮らしているのだからいつもそばにいるという意味でも身近な存在だ。
この物理的な距離感によって、家族の心が混乱することも考えられる。
つまり、心理的に間合いが詰まったとしても物理的な間合いを取ることができれば、気持ちを切り替えられる逃げ場があると言えよう。

だが典型的な例として、統合失調症の子供を介護する両親の内、母親に逃げ場はあるだろうか?
表現は悪いが、介護に協力的であっても朝になれば仕事に出る父親には、職場という物理的な距離感を得られる逃げ場がある。
他方、ずっと家にいる患者を看る、ずっと家にいる母親に逃げ場はない。
逃げ場というのもまた、表現悪くまるで患者から逃げるような印象を与えてしまうが、決してそうではなくて支える者には窮した心を休める場所が必要だという意味である。
この例のような母親の場合、近づきすぎると巻き込まれるのではなくて離れる術がないのである。


さて、そういう過酷な状況で患者家族が視点の変容過程を歩むにはどうすればいいのだろう?
介入と支援とは、逃げ場の無い者に向けられるべきではないか。
それはもちろん、他者の支援であり、どうして他者なのかと言えば他者でなければ合理性と冷静さに欠いてしまうからだ。
他者――。
少し詳しく言い換えたい。他者とは病院や行政の精神保健福祉の専門家であったりする。
ところが専門家が積極的に支援を行い始めるのは、混乱期が過ぎて異常では無く症状なのだと視点の変化が現れたころにようやく……ではないか?
ましてやら、言わなければなにもしない・聞かなければ教えない、そんな古びた公人分化が未だに残るのなら、行政もサービスです、医療もサービスですと、ユーザーは言わせないだろう。
もっとも、家族自らで答えを見いだせる状況で積極介入する支援なら、被支援者のレスポンスも良く〝やりやすい〟のかもしれないが……。
支援が必要なのは、支援を求めることができる者以上に、物理的・心理的に巻き込まれてしまい心の逃げ場もなく、もはや支援を求めるエネルギーまで散ってしまった者に対して働きかけるものでなはないか?



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1 件のコメント:

  1. 症状ととらえたり、一緒にまきこまれるほどに近づく姿勢良いと思います。
    私は、現実は違うことを一生懸命といてしまいます。

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