統合失調症への偏見をこめた言葉のカタマリ
2002年に精神分裂病から病名変更された疾患、統合失調症。
1935年の頃、ドイツ語であるスキゾフレニア Schizophrenieが精神分裂病と日本語訳されて以来、病名が社会に与えるインパクトは単純かつ深刻なものだった。
――原因不明で人格崩壊に至り、社会から隔離しておく他に無い予後不良の怖ろしい病気。
その社会的認知の背景には、今ほどの治療法の確立や抗精神病薬の開発も無く、実際的に予後不良で人格の荒廃という多数の現実が裏付けしていたことにもよる。
そして1950年代、抗精神病薬が登場。
さらには、遺伝、環境要因、素因、脳科学等の学問的解明も進み、世界的にも時代的にも大差ない発症率を維持するありふれた病気、精神分裂病は類まれな絶望的で不幸な病気でもないことがわかり始めた。
そのような病気そのものの変化を横目に、社会からの偏見と今までの認識が誤解であったことや認識そのものを変えていかなければならない必要性を社会に発信することが立ち遅れる中、当時の全家連を筆頭にした患者家族達が動く。
――日本精神神経学会の総会にて、精神分裂病から統合失調症へ呼称変更することが議決。
と同時に、厚生労働省による新名称使用に関する全国通知。
呼称変更されて10年以上が経った今更ではあるが、精神分裂から統合失調へと呼称が与えるインパクトは随分と変わり、短絡的ではあるがなんとなくそれっぽい言い回しはいかにも医療的でマイルドなイメージを醸し出しているのではないだろうか?
また、病から症へと呼称変更されたことにより、実際の疾患特性と社会的認識の差異は縮まったとも言える。
何故なら、この疾患は患者それぞれが呈する症状も経過も様々であり、まさに「症」、すまわち症候群であるからだ。
つまり、これにかかると全患者が人格崩壊に至り予後不良ではないということを社会に対して呼称から再認識させる効果が望める。
しかし、当然のことながら、呼称変更だけで偏見=スティグマの問題が解決できるようなものでもない。
社会に根差した偏見は一人歩きするかのように形を変え難く受け継がれてきたのだろうし、これからも受け継がれていく気配さえ感じずにはいられない……。
ところで、10年以上が経った今更とは書いたものの、それほどの時間を費やしても統合失調症への呼称変更の認知度はおよそ50%程度に留まり、精神分裂病という病名の存在感は未だ大きいことを付け加えておきたい。
変えること、変わること。
それは簡単なことではないのだろうなと、つくづく感じる。
だから、統合失調症患者や、その家族が背負う孤立性や負い目は今も一昔前もさして変わりはしないのかもしれない。
けれども、それに反するかのようにインターネット社会が急速に発展を遂げた今、個人が意見を発信することはいとも容易くできる時代に変わった。
そして、偏見という名の意見も同じく……。
ネット上に書き込まれる、精神疾患への偏見を表す言葉達。
その全てを偏見と解釈してしまうのは逆にこちら側の偏見となりかねないとしても、ざっと社会を見渡せば精神疾患への心理的抵抗と理解不足から生じる偏見と、嫌悪と無理解から生じる偏見は威力的に当事者の心を追いつめているはずだ。
これは気付きにくいことだが、偏見を言葉に変えて発信する人の心にはひとつの偏見言葉だけが存在するのだとしても、偏見を受けとめる当事者の心にはありとあらゆる偏見言葉が混沌と居座り続けている。
僕は敢えて、ネット上に散らばる、偏見を意味する言葉を塊として以下に書き連ねた。
それぞれの人々が発信したひとつひとつの言葉は、悲しいかな、言葉の塊として当事者の心に届く……。
恐い、絶対に関わりたくない、何をするかわからない、不気味、気持ち悪い、キ●ガイ、頭おかしい、身内にいたらどうしようと思う…、糖質、キチ、ジキルとハイド、脳にエラー、結婚も出来ない、恥、キミはいくつの人格を持ってるの?、危険、なせ統合失調症なんて遠回しな名前にした?、治らない、関わらせたくない、精神分裂病が一番しっくりくるよな、お前は頭が狂っているから雇ってくれる会社なんてない、あんたのせいで私の人生は無茶苦茶、こいつキモイ、離婚したほうがいい、気持ち悪い、犯罪者と同一視、糖質が社会に出てきても自分と周りお互いに辛いだけだと思う、精神異常、汚い、あちゃ~統失かよ、人に言えない、危険人物、キチガイの烙印、一生閉じ込めておけ、悪の遺伝血、別の人格に命令されてるんだろ?、有害、家の恥、基地外、子供なんて産むなよな、どれだけ迷惑をかけられたかわかるか!死ぬまで入院しているのが一番良い、病んでる、人格崩壊、人間崩壊、魔女狩り、一生治んない、犯罪を犯してもおとがめなし、奇妙で理解しがたく訳の分らないもの、ダジャレの連鎖みたいに言葉が進む、とんだ欠陥、親から頭がおかしいと言われます、同じクラスになることは迷惑、キチガイ病院、カタワとキチガイ、統合失調症ってやばいらしいな、……
どうだろうか?
もはや、「あいつは馬鹿な奴だ」なんて他者を中傷する程度のものではなく、当事者の人生そのものに明確で確実に傷跡を残すべく影響力を持った言葉達。
当事者は、偏見に関する論議に興味なしとする意見もあるが、それは無関心であろうとする最大の防御ではないだろうか?
どうか、生き辛さを背負いながら暮らす当事者の苦労、不安、悲しみ、負い目、孤独について考える時間を持ってほしい。
偏見は失くすことができるか?
個人的に患者家族であるという関係者として、ただただ、その凄まじさと哀しさだけを感じる反面、正直なところ偏見と言うものをゼロ化することは不可能であるとも思う。
それでは、偏見を失くせないなら減少させることはできるだろうか?
どうしたら偏見はなくなるのか? いや、減少するのか?
例えば、統合失調症や躁鬱病の一般的な症状の解釈や生涯の有病率などについては、教科書本を一冊読むなりネットブラウジングするなりで簡単に頭に入れることはできるのだろう。
しかし、それだけでは「話し掛けにくい」などといった精神疾患患者に対する心理的な距離感は縮まらない。
「思っていたことと少し違うかな?」と新しい発見に結び付けられる為には知識に加えて体験が必要、つまり精神疾患患者に様々な偏見を持つ人と当事者である患者が接触する機会を体験することが効果的だと言える。
当事者からの生々しい体験や、できることできないことによる日常生活の困難度は決して一面的ではなく人それぞれ多様な問題を背負っているのだということを直接見聞きすることによって得られる、偏見減少の効果は大きいはずだ。
そのような体験を通じて心理的に身構えなくなればこそ、知識的理解と合わさり、実は誰もがなりうるありふれた病気なのだと知る。
また、偏見というものは、それが強ければ強いほどその対象を避けようとするものだが、一方で強い偏見を持った人ほど効果的に理解を深めれば変化は大きいと言われている。
勿論、現実的に当事者と効果的かつ持続的に接触の機会を得るには一個人が自発的にできるものではなく、ここはやはり、行政や精神保健福祉に従事する人々の積極的な働きかけによる、地域のアクションを望むところではある。
偏見をなくそうだなんて、偏見のない世の中だなんて何をいまさら……それって理想論?
いえ、「病院から地域へ」と謳うこれからの時代、理想論から必要論への転換が迫られているのではないだろうか。
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