精神障害者家族会に不足するものは〝若さ〟ではないだろうか
統合失調症や躁鬱病をはじめとする精神疾患。他、うつ病の患者を身内にもつ家族が集まる〝家族会〟は、参加不参加は別として、家族が罹患すれば誰もがその存在を知るはずだ。
では、家族会とはなんだろう?
家族会は、統合失調症をはじめとする精神疾患患者を身内に持つ家族が集まり、心理的に支え合うことや、疾患への理解・向精神薬の知識を共に学ぶことが目的とされる。
家族会の形態も様々であるらしく、地域主催、病院主催、居住地によっては法人格の組織に参加することが可能な場合もあるだろう。
また、定期的な勉強会が開催されていることも多く、参加することによって精神疾患に関する基礎力が身につくことは間違いない。例えば、向精神薬と抗精神病薬の違いであるとか、CP換算値ってなに? など、役立つ情報に触れる機会は多いはずだ。
もっとも、それらはネットや書籍を開けば解くことのできる知識ばかりだったとしても、やはり自らが足を運んで目と耳から学ぶことの価値は大いにあるはずだ。
いずれにしても、精神疾患患者を支える家族として基礎力が有れば治療者との会話を正確に理解することができるであろうし、むしろ病院主催の勉強会は、診察中に時間を割くことのできない基礎知識の供給を勉強会と題して行う、家族向けの合理的な施策だと感じている。
実際問題、精神疾患によって引き起こされる問題や苦悩を身近な他者に相談できるか? となれば、現実的な偏見を警戒してしまうことは否めない。
したがって、警戒すること無く心情を吐露できることや病気を学べる場所は、おのずと孤立してしまいがちな家族にとっては貴重な環境と言えるだろう。
特に発症後間もない患者を抱えた家族ならば、病気について学ぶこと以上に、同じ立場の人々の存在にグッと支えられるものだと思う。
かく言う僕も、地域主催の家族会を〝かじった〟経験がある。
それは、妻が医療保護入院となってから半年ぐらいが過ぎた頃だったろうか。衰える気配の無い病勢に付け加えて、どうにもこうにも折り合いの悪い治療者との関係。治療のやり直しになったとしても転院を決断するべきなのか、それとも治療環境を変えてしまうことによる妻の負担を考えればそれは正しい判断なのか? グルグルグルグルと結論を出せずじまいで過ごす毎日に爆発してしまいそうな気持ちは、とある家族会の存在に引き寄せられた。
だが、結果的には〝かじった〟程度で長く通うことはしなかった。
それには理由がある。
参加しているメンバーのほとんど、いや、自分以外の全員が年齢的に一段上の世代である親御さんたちばかりの状況だったからだ。そしておそらく、僕は〝ういていた〟と思う。
〝華々しい陽性症状が衰えぬ配偶者〟〝医療保護入院の保護者〟〝中間世代〟など、病状段階や立場に人生観などなど……心情の要所となるべく点で浮き彫りになる属性の違い。
たとえば、人間らしさを失ってしまった患者に対する家族の感情的混乱と、陰性症状による生活のしづらさについて苦悩することとは、本質的に共感できたとしても表面的には交わりにくいものだ。
また、関係を切ることが可能な配偶者という属性と、親子の関係ではやはり感情の流れてゆく方向は違う。
さらに、患者の病状段階が違えば求める情報も根本的に異なる。
もちろん、僕と彼らがわかり合えないという話ではない。
立場を超えて互いの存在に支えられることはかけがえのない経験だ。
だが、双方向的かつ主体的に心情を吐露し、地域ならではの具体的な情報を期待する僕にとって、上記のような理由により場の空気に馴染めなかったことは事実だ。
そして、家族会に参加した感想をひと言で表せば〝若い人が居ない〟となった。
若い人が居ない。それは、参加者の属性に偏りを生じさせる要因のひとつではないだろうか。
もちろん一例は一例に過ぎず、個人がかじった一例を一般論化することは無意義なことだが、正直言って僕は肩身が狭かった。
そんなわけで、僕の家族会参加は〝かじった〟程度でやめてしまうわけだが、物理的に参加を継続できない理由がもうひとつあった。
それは会社員である僕にとって、平日の真っ昼間は仕事をする時間なのであって、家族会に参加できる時間の空白が無かったからだ。
また、週末には専門家を招いて勉強会を企画しているからと聞かされても、その週末は大切な妻との面会に費やす貴重な時間であるから、結局のところ家族会どころではなかった。
――と、個人の一例を挙げて家族会を評価することはバイアスの効いた意見になりがちではあるが、 全国見渡せば百人百様の状況と問題に対して、機能的に働きかける家族会の存在も数多く存在するであろうことは事実であって、一例を一般論化することは無意義だと書いた意味はそこにある。
だとしても、家族会と言えばリアルでつながることのできる空間でありながら、既述のような僕の感想は、今どきの家族会が抱える傾向に如実に映しだされたものではないかと思うのだ。
ところで、こんな話を聞いたことがある。
ある人が家族会に参加したところ、苦悩を聴いてもらうどころか苦労を聞かされるばかりだったという話だ。
思うには、話し手の苦悩に触れるうちについ、共感の域を超えてしまった聞き手が聴くことを忘れてしまったあげく、自らが積み上げてきた苦悩を喋り散らしてしまったのだろうと想像するのだが、おそらくそこに浮かび上がってしまったものは比較しない価値ではなく、比較することによって気持ちを整理しようとする一面ではなかったかと思う。
そう、つまり苦悩度を推し計ることによって不安を解決しようとするもの……。
家族は、時に患者以上の苦しみや問題を背負うものだと僕は思うから、いつの間にか苦労話の熱弁に転じてしまうこともわからないでもない。
そうは言うものの、その人にとって抱えきれない苦悩を吐露したあげく〝私に比べればまだまだ大丈夫よ〟と言われてしまったその人の気持ちのやり場はいったいどこにあるのだろう?
優しい言葉も強い愛情も通用しない精神症状に打ちのめされ、悔しさとか悲しみがごっちゃになりながら頑張ってきた体験者同士だからこそ、比較しない価値を知っているはずなのに……と思う。
ともすれば、リアルの良さはネットのようにスルーできない煩わしさをはらんでいるのかもしれない。
時代を問わず一定の有病率で推移する精神疾患ーー。
ネットでのコミュニティが急速に進化する一方で、リアルでの家族会に課されたテーマは〝若さ〟ではないかと感じている今日この頃である。
全くあなたがお話しする通りです。多種多様で、年齢も経済力や、家族構成、立場、感性、みんな違う。働きながら、奥さんを支え、日々格闘してるから、今読ませて頂いた文章が、生まれるのだと思います。私もそう感じることが、あるから。言葉で表してくださってありがとうございます。今日1日頑張れそうです。
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