統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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病から症 / 障害から症~精神疾患を取り巻く環境の変遷

偏見の入り口には言葉がある

人は正確な認識が無ければ言葉をたよりにイメージをつくりあげることがある。
そしてイメージでつくりあげた認識が自らの実生活に縁のないものである場合、その認識をより正確な情報で修正しようとする思考はなかなか働かない。そのようにして出来上がった、およそ正しくはないであろう認識が人の数だけ寄り集まれば、社会的偏見という大きな単位に姿は変わる。

1937年から65年間にわたり呼称されてきた精神分裂病は、2002年、統合失調症へと呼称変更された。それは精神科医療の長い歴史の中において〝病から症〟へ移り変わる瞬間であった。
この背景には、当時の全国精神障害者家族会が日本精神神経学会に対して〝精神が分裂する病気〟だと釈されてしまうことによって当事者が背負う不利益をどうにかして欲しいという強い要望が働いたところにある。
実際に病名変更が実行されるまでには相応の時間が費やされたが、精神分裂病が統合失調症という疾患名に上書きされたことによる偏見除去の効果は決して小さなものではないと感じている。この文中ではそのような思いからも、統合失調症への呼称変更を社会に流布させるための費用の一部が製薬会社からの提供だったなどの裏事情には横を向いておきたい。

精神疾患は体験や関係を伴わなければ問題の中身を想像し難い領域であると思う。だからこそ、「誤解されやすい病名だが実は……」と、正しい認識にわざわざ遠回りさせるようなことをせず、最初のインパクトが違った方が話は早い。
偏見を生み出す要因のすべてが語感によるものではないが、たかが言葉、されど言葉。偏見の入り口には言葉があったとも言えるだろう。

障害は症へ

2014年5月28日。日本精神神経学会は昨年5月に改訂されたアメリカ精神医学会の精神疾患・診断基準DSM-Ⅳ(第5版)で示された病名の日本語訳公表に伴い、子供の病気や若年世代の病気を中心に従来〝障害〟と和訳されていた箇所を倫理的、偏見除去の観点から〝症〟と訳すと共に、障害という語感によって当事者に生じる不利益を軽減させる目的を掲げた。

DSM(diagnostic and statistical manual of mental disorders)とは米国精神医学会が出版している精神疾患の標準分類と診断基準のことを指している。
1952年にDSM-Ⅰが作成されて以来、世界共通の精神疾患診断マニュアルとして広まった。日本の精神科医療においても、特定の期間における特定の症状をDSMによる分類と診断基準に照らして診断が行われているのは既知の通りだ。

このたびの発表によると、日本語訳のコンセプトは以下の通りであるそうだ。
患者中心の医療が行われる中で病名や用語は平易で理解と納得が得られやすいものであること。差別意識や不快感を与えてしまわない名称であること。病気に対する国民の認知度向上が期待される名称であること。直訳がふさわしくないと考えられる場合は意訳とすることで主旨を保つこと。などである。
(主な変更例)
注意欠陥・多動性障害(注意力の欠如や衝動的な行動に走りやすいなど)→注意欠如・多動症
学習障害(読み書きが困難な子供など)→学習症
アスペルガー障害や自閉性障害(対人関係の問題など)→自閉スペクトラム症に統一
パニック障害(不安発作を繰り返すなど)→パニック症
性同一性障害(体の性と自らで感じる性の不一致など)→性別違和

――語感が変わることでスティグマ(偏見)が軽減され、非当事者の適切な認知度も向上するのなら、精神分裂病の呼称変更と同様に当事者や家族の視点に立った施策ではないだろうか。
もっとも、この件により医療保険請求の入力病名変更も予定されているそうだ。該当業務に携わる人々にとって病名変更が業務の煩雑さを生じさせる一因でもあるのなら、今さら病名変更することは単なる〝言葉狩り〟ではないか? という声があがることも理解できないでもないが、当事者や家族は言葉に、そして世の中の空気に負けてしまいそうな時だってあるだろう。そのことを考えれば〝今さら〟なのではなく、もっと早く変わる必要があったとも言える。

精神疾患のハンディキャップは目に映らない

――こわい、無気味、よくわからない、付き合いにくい、近寄りがたい……。
精神疾患には社会通念上の〝人間らしさ〟の一定概念からかけ離れた印象を与えてしまう病性があるせいか、身体・知的の2障害に比べても第三者が疾患に持つ印象はとかく薄暗い。
このことは、障害に対して〝かわいそう〟と連想するには少し違う、精神領域特有のイメージなのだと思う。そして、特有さの根本はハンディキャップが第三者の目には映らない〝精神〟に在るからだと思うのだ。
目に映らないことはわかりづらいということであり、適切な情報に触れる機会も無いならば、認識はイメージが誘導するという流れを生み出してしまう。

また、精神疾患によって生じる問題に触れることがタブーだとする無意識な抵抗感情もあるだろう。
記憶の限りでは、毎年恒例の24時間テレビに重篤な精神疾患がテーマとして取り上げられたことはない。
もっとも、精神疾患といっても概念は広いのだから番組内に関連したテーマが一切ないということでもなく、是非取り上げるべきだという意見でもなく、つまり、重篤な統合失調症 が引き起こす問題の背後にある切ない愛であったり、壮絶な日常であったり、人生を賭けた希望への歩みであったり……と、そのようなことをメディアの〝絵〟とすることに一定のタブーと無意義が存在するのだろうなというだけの話ではある。
不明瞭とタブーは、精神疾患をいつも薄暗く照らしている……。

あわせて、統合失調症の症状に見られるプッと空笑いする仕草を、奇異ではなく病状だと認識する第三者はそう多くはない。つまり、痛みとか機能消失などの健常者が想像しやすいハンディキャップであれば理解度も上がるであろうが、幻聴や幻視などの精神症状は体験や関係を伴わなければなかなか想像力が及ぶものでもなく、その結果、よくわからないうえに人間らしさが感じられず近寄りがたいといった思考に結びつくのだろう。つまり逆を言えば、目に映るハンディキャップであるほうが理解しやすいのである。
このことからも、もともと理解されにくいハンディキャップと負のイメージ付きの疾患名は、健常者と非健常者との距離感を拡大させる要因であったとも感じている。

変えると変わる

障害という言葉から受ける語感は人それぞれであり、また、その言葉から何を意味立てようが人々の自由でもある。
感じ方の是非はともかくとして、障害者と聞いて〝可哀想〟と感じる人も居れば〝憎々しい〟と感じる人もいる。障害を背負うことが〝特別〟と意味づける人も居れば〝日常〟であると意味づける者だっているだろう。

だとしても、世の中には適切な認識の指標となる言葉が必要だ。
精神分裂病という病名が第三者に与えてきたインパクトもしかり、語尾に〝障害〟と付けることで、健常ではない人生を不可逆的にシンボル化していたことは事実ではないだろうか。
――精神分裂病から統合失調症へと呼称変更されて10年以上が過ぎた現在、統合失調症の認知度はようやく50%を超えてきた。
変えると変わるは同時には実現されないのだろう。
だがしかし、生きる時代を取り巻く環境の中で当事者は、そして家族は、皆、前を向いて生きる。



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