統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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精神疾患患者と支える者に降る雨~雨の日は相合い傘で

雨は人の心を映し出す――。

精神疾患の病像に振り回されていた当時、妻との結婚生活には心の雨がよく似合った。
病は言葉を選ばない。
「――卑怯な男」
宙を飛ぶ罵声に、どこがどう卑怯なんだと問う僕の感情はきっと事態の本質を理解していなかっただろう。

夫を罵倒する激しい被害妄想は、アスファルトを叩きつけるような激しい雨。
〝僕だけが苦しいと思うんじゃない〟
そうやって自分をいさめる心情の裏には、苦しさをわかって欲しいと望むほんとうの気持ちが見え隠れしている。

じゃあ、この気持ちをほんとうにわかって欲しい相手は誰だろう……?
それは僕を罵倒した妻だった。

謝って欲しい?
そうではない。僕は妻に共感して欲しかったのだ。
それが病者に望むべきことでないことなんて、患者家族の立場に立つ者として揺るぎなく認識している。けれど、感じることは考えることと常にせめぎ合うもの。
君に降る激しい雨を僕は知っている。けれど僕に降るこの雨も知って欲しい。
だから謝って欲しいのではなく、同じ雨に打たれて欲しい。
そんな気持ちに駆られたことを覚えている。


〝帰ってくるな〟と言われて外をぶらぶら歩き回っていると、他家の窓際から漏れる家族の笑い声。

〝俺の今やってることってなんだ?〟
自分のみすぼらしさを大衆の幸福に照らす僕には、弱くとも肌に染みいるような冷たい雨が降っていた。
そんな僕が傘を広げる理由は雨に濡れぬためではなく、世の中から傘の影に隠れるためだった。
そして僕は、他人から〝あなたも大変ね〟なんて言葉が欲しかったのではない。
家族の団らんに笑顔があるという事実がただ欲しかったのだ。


精神疾患の親と暮らす子供たち。学校で親の話題になるとスッと身をかわすことを覚えた子供たちもまた、雨空を見上げると太陽がのぞいているような不思議な雨に打たれていたことだろう。
普通の家庭ではない理由を、察する以外に直接ふれてしまってはいけない。
小さな胸の内でタブーに気をとられながら暮らすことは〝子供らしさ〟を少なからず奪ったと言える。


晩秋、妻の医療保護入院が決まった帰り道で降り出した雨。
看護師に手を引かれながら物々しい閉鎖病棟へと消えた妻の面影を雨に重ねれば、シトシトと降り出した冷たい雨は彼女の涙雨だと感じた。


病状の経過も雨のようだと思えば、そうかもしれない。
激しい雨ほど長くは続かないことは統合失調症の急性期とでも言うべきか。けれど、時に激しく降り続く雨だってあるだろう。そんな雨は、それまでに築き上げてきた多くのものを濁流のごとく押し流してゆく。

細く静かに降り続く雨は陰性期とでも言うべきか。じめじめと長きにわたり心を濡らすが、激しい日照りを思えばそれもまた悪くはない場合もある。



妻もまた雨に打たれていた。
世の中への、家族への、そして自分への負い目に包まれながら雨に打たれ続ける妻。
彼女もまた感じたはずだ。

この気持ちをほんとうにわかって欲しい相手は誰だろう……?
それは理由なく罵倒した僕だった。
わかって欲しい?
そうではない。彼女は僕に共感して欲しかったのだ。
〝わかってもらえる〟難しさを僕以上に知っていたのは妻であるに違いない。
彼女もまた、同じ雨に打たれて欲しいと思っていただろう。


――時は流れた。
人生に雨はつきものだ。
だが、僕に降る雨も妻に降る雨も、同じ空から降るもの。
と、そんなことをあらためて思う。

ふたりは今、雨が降れば傘をさしたいと思える二人である。
そして、同じように雨に打たれて欲しいと望み合う二人ではない。
雨の日は、同じ空を見上げて相合い傘を広げている。



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