当事者の家族としての立場、つまり僕自身の体験を参照しながら〝人称〟という視点で〝幻聴〟を考えてみたい。
だが、文中の内容は体験に基づくものであるから一例に過ぎないと同時に、そもそも統合失調症の病的体験に一例を他例に流用することや一般化することには無理がある。
それだけ、精神症状というものは多彩であり、定型で説明づけることはできない。……と、少なくとも僕はそう考えている。
それでは、文中での各類型をあらかじめ説明しておくと以下のようになる。
- 三人称幻聴は、複数の声が患者のことについてコメントし合うもの。
- 二人称幻聴は、患者に対して直接的に話しかけてくるもの。
- 一人称幻聴は、幻聴の声そのものが自分であること。
イメージとして、三人称幻聴から一人称幻聴へと変化していくにつれて幻聴はより近く、よりリアルに当事者の精神に影響を与えるものであり、なにやら遠くに察知していたであろう〝声〟がだんだんと近寄ってきながら自らの周辺でザワザワとうごめく〝声〟に変化する。そうして、最後には他者的であった声が真実として自らの意思となり、自己決定さえ可能なほど一変していく……。このようなことが、僕なりに感じたことではある。
幕が上がって体験したのは三人称幻聴
幻聴は声であったり音であったり、幻覚に近いような感覚的なものに音声が後付けされたものであったり、それは実に多彩な症状であるらしいが、妻の場合、幻聴は音ではなくはっきりとした人の声であったと振り返る。
当時の病的体験をイメージ化したうえで言葉にすると、ちょうど公園のような広すぎず狭すぎずの空間で妻のことを話し合う複数人の輩が見えたそうだ。
もっとも、連中の会話に参加しているのでもない妻には彼らがいったい何を話しているのかはわかるはずがないのだが、とにかく自分のことを熱心に話しているに違いないとして、耳を澄ましている妻……。
決して演技でもなく耳を澄ます妻の姿は、役者が演じる以上にリアルで自然な姿として僕の目には映った。
さらに、空間上にある何かに集中する妻の視線の強さは半端なく、一方で、その何かを識別できない僕には俗な表現をすれば悪霊にでもとりつかれたかのような……そんな怪しさを感じさせるようなものでもあった。
そばに居ながら妻の異変を心配する僕は必死になって目に映る光景を説明づけようとするのだが、無論、何を言ってやれば良いのか? どうすれば良いのか? なにもかもがわからない。
かといって、耳を澄ます妻の様子は混乱を極めたものでもなかった。
異常であり奇異でありながら、不自然ではなく不穏でもないことの大きなギャップは僕をますますわからなくさせていた。
――彼らは何を話しているんだろう?
妻の記憶によると、当初はそう遠くない場所で、どちらかと言えば楽しそうに話し合う彼らの存在を感じたと言う。
楽しそうに話しているからこそ、妻としては強い関心を向けざる得ない状況に陥るとともに、彼らの声が近づいてくるというよりむしろ、彼らに聞き耳を澄ましながら自ら近づいていくといった感覚であったようだ。
ひょっとすると、それ以前にも音らしきものを聴感として経験していたのかもしれない。
言わば、仕切られていた幕が上がると同時に一気に舞台に集中する観衆のように、妻の精神は舞台にのみ込まれていったのだろうか。
混乱を極めた二人称幻聴
やや離れた位置から彼らに近づくにつれて、話題の中心は自分のことだったと認識し始めた妻。しかも、彼らはひっきりなしに自分を褒め称えつつ中傷している。つまり、支離滅裂に自分のことを語っているのだ。
やがて、幻聴の声の主たちは妻に直接、言葉を浴びせはじめた。
〝おまえは――〟
主語の大部分は妻の名前へと変化し、吹っかけてくるコメントや中傷は彼女に無関係なことは何ひとつ無い。
「おまえはいつもひとりだな?」
「おまえはあいつのことが本当は嫌いなんだろう?」
「ちがうちがう! 次はおまえの番だ」
話題は次から次へと転々とするのだが、妻の精神も彼らの支離滅裂さのテンポにちゃんと合っているから不思議だ……。
そこで起こっている病的体験というひとつの出来事を構成する〝パーツ〟は、不揃いでバラバラなものばかりなのに、出来事としての完成度は高い。
言うなれば、矛盾だらけなのに矛盾を感じさせない。
そのような不可解な光景の中に、幻聴に肯定されれば笑みを浮かべ、瞬時に中傷へと転じれば疑問と悲観に満ちた表情をしつつ言い返す妻が居た。
それはつまり、空笑や独語を断続的に繰り返しながら、そう長くない周期で幻聴が自らを中傷することに抵抗する妻の病状だったと言えるだろう。
――放っておけない、と緊急性を感じたのはどの頃かと言えば、この時点となる。
なによりも、中傷に堪えきれずに床にうずくまってしまった妻を前にしたとき、脂汗をにじませながら狼狽した自分をよく覚えている……。
幻聴との直接やりとりが行われてしまう二人称による幻聴に身をよじりながら抵抗する妻でありながら、いっそ、従ってしまえば楽になるのかもしれないという現実的思考も入り交じるのだろうか、命令に従うことで身を守ろうとする妻を感じていた……。
幻聴に対して抵抗と服従を繰り返す混乱した状態。だから、入院以外に対応の選択はなかったと言えばそうなる。
当時からさかのぼって約10年前、統合失調症圏内だとされてから単剤の抗精神病薬に副作用止めのシンプルな処方だけで通院加療を継続してきた。
その経過において、軽度の妄想は存在したがリアルな幻聴を経験したことはない。表面的には軽快するかのように過ごせてきたとしても、舞台裏では着々と病状が進行していたのかと勘ぐれば、向けどころのない怒りさえ感じるものだった。
僕はふと考えることがある。幕が上がり病的世界に引きずり込まれてさえなければ、重症化してしまう経験をせずにすんだのではないかと……。
そしてまた、重症化した経験さえ過去のものとなった今、幕が下りたには違いないが次のステージへ向けて幕の向こう側では静かなる準備が進行されているのかもしれないと考えると、はかなくもやりきれない思いである……。
一人称幻聴は命の危険にさらされる
激しい命令幻聴に支配された結果、知情意が解体し数多くの問題行動もあらわれた。徘徊や失踪も、全ては幻聴による他者の指示命令に操られたようなものであり、それは特定できない他人の声によるものだった。
ところが、幻聴の声が他人から自分に変化したとき、抵抗することのできない絶対的なものとなるようだ。
そのことについて、最大の危機に該当するのが希死念慮ではないだろうか。
〝おまえは――死ねば良い〟から〝私は――死ぬ〟へと主語が置き換わり、病的体験でありながら訂正を許さぬ現実思考のようにして自分が自分を支配してしまう状態である。
僕には、もはや自分に抵抗するといった余計な思考さえ働かず、生と死の感覚差さえ無い状態だと思えた。
このような状態になってしまった妻の命を守るために隔離拘束といった処遇や強い鎮静を目的とした大量処方がなされたとすれば、家族感情など命あってのものでしかないと改めて思い知らされる次第だ。
薬物への代謝特性が原因だったのだろうか……妻の場合は危険な一人称幻聴から解放されるには長い経過を要したが、医療機関や医療者の変更も合わせながら幻聴は消失した。
幻聴への対応と家族の愛
総じて、ひとたび激しい幻聴が起こってしまったなら患者の苦しみを和らげるものは〝薬〟の力だけだろうと思うのが正直なところではある。だとしても、いちど味わった苦しみに対して無意識に身構える妻に対して、僕のできることはなんだろうか?
それは、彼女の精神に幻聴が生じないように予防的生活に努めることであると考えている。たとえば、幻聴の発生する原因は孤立・不眠・過労・不安などが条件的に重なったときだと言われている。
もちろん、妻は服薬を継続しているから不眠や不安に関する項目には向精神薬が作用することによって対処できるところではある。
が……、孤立はどうだろう? 過労はどうだろう?
それは向精神薬が及ばない領域ではないだろうか?
つまり、妻が孤立感を抱かないように暖かい愛情で寄り添ってやること、妻が強い疲労感に包まれてしまわないように日常生活の適切な支援をしてやること――この重要な支えを担うのは向精神薬ではなく愛情なのである。
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