統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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統合失調症患者への接し方 どんな気持ちで言うか?それが大事

どんな気持ちで言うか? それが大事だ。

気持ちは言葉を介して相手へと届き、相手に届けば相手の気持ちがそれに重なる。届くと相手の持ち物となるのが、自分が発した〝ことば〟

どんなときに、どんな言葉で、そして、どんな気持ちで――言うか?
これは、服薬のモチベーションに影響する家族の態度にも通ずることではないだろうか。
思うままのタイミングと思うままの言い方で服薬が乱れた結論だけを叱責したとて、そうなってしまった患者の迷いに寄り添ってやらなければ、患者と家族の溝は深まるばかり。結論だけでつながる関係ほど希薄なものなんてない。
であっても、服薬を促す家族の言葉に揺るぎない愛情があれば話は別だ。
――どんな気持ちで言うか? それが大事だ。

服薬の必要性を理解して自発的な服薬管理を患者自らで行って欲しい――、つまり家族は、統合失調症患者に対して服薬のモチベーションを絶やさないでいてくれることをいつも望んでいる。
「おくすりのんだ?」
よく、使うであろう、聞くであろう、この言葉。
けれども、家族はどんな気持ちで「おくすりのんだ?」と聞くのだろう?

自己判断で飲んだり飲まなかったり、勝手に量を減らすとやがて辛い目に合うのは患者であることを強く心配する気持ちで言うのか、あるいは、服薬が途切れて調子を崩されると家族の負担が増えるであろうことを嫌う気持ちで言うのか。
ぶっちゃけた話、患者のために言うのか家族のために言うのか?
「おくすりのんだ?」
そのひと言に根ざす家族の気持ちはどんなだろう?


――妻はもともと感受性の高い女性だ。その一方で、自分に不利益なことを感受するとストレートに傷ついてしまうタイプの女性。つまり、日常で起こりうる大小の〝嫌な出来事〟受け流したりはねつけたりすることが下手なのだ。
そんな彼女の人柄と素質に見合うようにしながら、発症としての統合失調症は進行していたと振り返ることもできる。
そんな彼女だから病前病後に限らず、夫である僕の言うことはいつも敏感で正確に妻に伝わるようだ。
先ほどの話に戻れば、 服薬の重要性は真に彼女のためだと考えているのか、いい加減な服薬管理で調子を崩されると僕が〝こまる〟と考えているのか、どんなときにどんな言葉で説明したところで、どんな気持ちで言っているのかを難なく感づくのが、妻だ。

そんな彼女ではあるが、正直、タイミングと言葉を選びながら腫れ物に触るように服薬を促した経験は、ある。なにかに混ぜてでも薬を飲んでもらわなければならなかったことも記憶している。
どんな気持ちで……? そんな生っちょろい建て前なんて病識の欠如を前にすれば意味も必要もないことも、わかる。
だましてでも飲ますことが愛情なのか? そのことの是非を問うことにも価値はなかった。
妻は、そんな僕をどんなふうに感じていたんだろう……。
きっと僕が今さら、どんな気持ちで言うかが大事だと考えるずっと以前から、僕の言うことの根っこにある気持ちを探していたのかもしれない。

こんなことを言うと決まって、統合失調症患者が調子を崩せば相手の気持ちを感じ取るなんて現実性などないと、言われるかもしれない。
はたしてそうだろうか?
ひどく調子を崩してしまい、頓服を飲まそうとする家族にキレる患者。
暴れてしまって身体拘束を余儀なくされる患者。
隔離室で壁を叩き続ける患者。
そこに感情はないのか?
どんな気持ちで言おうが、彼らにはなにも伝えることはできないのか?
そうではない。と、僕は思うのだ。
たとえ激しい陽性症状に混乱する彼らの知と情であったとしても、その隙間の奥にかろうじて存在する〝意〟は接する者を見て感じているはずだ。

手と腰と足をベッドに固定されようとするときに〝かけられる言葉〟に根ざす〝気持ち〟は患者の〝意〟に伝わり、回復を経て知が戻り情が整う過程で、ふと思い起こすものだろたと思う。そうして、記憶は患者のそれからの人生に記録として残るはずだ。
もし、暴力的にベッドにしばられたのなら、医療は暴力なんだと記録するかもしれない。
もし、毅然とした医療スタッフの言動の根っこに〝あなたを守りたい〟と、そんな気持ちがあったのなら、やがて回復したころに医療は医療だったと患者は記録するだろう。

ともすれば、家族や医療者への敵意が、回復後に何に変容するかのカギは〝どんな気持ちだったか?〟かもしれない。

どんな気持ちで? それが大事だ。



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4 件のコメント:

  1. 岩崎さま
    こんにちは。
    人がその人の根幹をなす〈心=気持ち〉、それが患者にとってはすべてなのかな?と思いました。周りの人間は気持ち以外のことで行動することがたくさんあって、その中で患者の感受性に触れて立ち止まり、〈気持ち〉を見つめ成長させられているような気さえしています。
    病状が酷い時、人として自分を完全に失ってはいなかったことは、最近子どもが当時のことを完全な認識・思考の元に振り返って話してくれたことに驚いたばかりです。
    大切なこの人と人として充分に気持ちを重ねながら過ごせたら・・・と思います。
    (人気ブログランキングからは撤退されたのですね。)

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    1. はい、人気ブログ……の場合はブログ数の分母が非常に小さく、自分が発信しようとするメッセージが当事者の方ばかりに向かっているのではないかという疑問が湧きました。
      ところで、患者さんは「じっと見ている」ものですね。相手や周囲のことを。
      正直、私自身も妻の「人としての部分」が完全に壊れてしまったのだろうか? と、苦悩したことがありました。
      それに対する過剰な鎮静。
      もう本当に妻に笑顔が戻ることはないかもしれないと思ったことは何度かあります。
      あきらめた気持ちが時間と回復を経て、喜びと驚きに変わる感覚はめもりーさんも私も、同じように体験したことなのでしょうね。
      いえ、私達だけではなく、このことは世の多くの患者家族の方々が体験する、光と影と言えそうです。

      重篤な病状にあるとき、患者からの敵意に愛を見失いそうになるご家族もいるようです。
      どうか、そのことさえもが笑顔で振り返られるほどの「回復」が誰にとっても訪れることを祈るばかりです。

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  2. 患者さんは「じっと見ている」・・・本当にそう思います。疲れた顔を見せると自分と関連付けて落ちてしまいます。もしかしたら、〈笑顔〉が患者を向こうへ戻らせないための強力なバリアになるのかもしれないと、この頃思っています。
    〈人としての部分〉を感じられたときの、ホッとするような温かさに幸せを感じることは、決してレベルを下げたわけではなくて、本当に必要で大切な物を手に入れた喜びなのかもしれません。暗闇に差し込む一筋の光・・・まさに光と影ですね。

    いつも岩崎さんの広く深い愛情を記事から感じ、救われ又感化されています。

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    返信
    1. ありがとうございます。
      同意です。笑顔に勝る良薬も、笑顔に勝る喜びも、ないと思えるほどです。もちろん笑顔だけで解決しない問題は多くありますが、人の基本は笑顔。そう思います。

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