悲劇的感情は患者にとって刃物だ

「また悪くなって――いつもいつもどうしてこんなことになる！」

調子の上がり下がりについて、家族はゆるやかであっても患者が右上がりに回復ラインを描いていかぬことに失意と怒りを抱く場合がある。
とはいえ、多くの患者家族は統合失調症の疾患特性が〝そうはいかない〟ものだとする意識が上書きされているものだ。

そして、この場合の〝そうはいかない〟意識とは、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら時間と治療を積み重ねていくことによって長期的にはとても緩やかな右上がりの回復を願う気持ちを土台とした〝そうはいかない〟である。
だからそれは、統合失調症の長い長い経過で体験的に培われたものであり、青く深い海の底に希望のカケラを探し出すような重苦や、ふと日常に咲いた患者の笑顔に心で泣く……、そんな体験によって形成されている。
そう考えれば、〝そうはいかない〟と意識していることは悲観ではなく自信だ。

他方、どうして良くなったと思えばまた悪くなるんだ？　と憤る意識の深層には〝後戻りしない回復基調〟だけが常に存在しているのではないか。
そしてもし、〝後戻りしない回復基調〟だけを論拠とする家人の喧噪が、患者の目の前で繰り広げられたなら、それは刃物と呼ぶにふさわしいほど患者の心に傷を残す。


――このとき、同じ条件でもいつも以上に過敏かつ被害的に反応する妻は、調子を崩していた。
調子が良ければ刺激とはならないことも調子を崩せば否が応でも刺激となり、刺激が引き金となって新たな刺激がスパイラル的に広がっていくありさま。
すると、ゆるやかな右上がりの調子は不意にドスンと落ちてゆく。

義両親にとって、これがたまらなかったのだろう……。
かといって、患者である娘に対してたまらない憤りをぶつけるわけにもいかない。
結果、「また悪くなって――いつもいつもどうしてこんなことになる！」とする憤りは娘婿である僕に向かった。
と同時に、娘の前で娘婿に憤ることによって〝子を心配する親の姿〟を表現してみせた。

誰が悪い？　発症の原因性について議論することはしない。だとしても再発の原因性についてはとことん物言わせてもらう――。
そのような感情の高ぶりを僕だけではなく妻にも見せることによって、義両親はなにを得ようとしたのだろうか……。

義両親の感情の爆発をたどれば浮かび上がる、まぎれもない統合失調症発症事実における両親の悔恨の念。
それを目の当たりにした妻は、僕でもなく両親でもなく言わば空中に向けて悲鳴を上げた……。
「もうやめてー！」


患者の目の前で繰り広げられる、〝後戻りしない回復基調〟だけを論拠とする家族の喧噪は刃物と呼ぶにふさわしい？　僕は、ふさわしいと思う。
むしろ、これほど患者の心を切り裂いてしまう〝寄り添い〟はない。

大切な人が精神疾患にかかるという現実。精神症状が重篤であればあるほど支える者には悲劇的感情が実在し、悔やみ、悲しみ、怒りが激しく交錯する。
支える者の属性も様々だ。親、兄弟、配偶者、親戚‥様々な立場があって個別の考えがあるのは当然の話。
個別の考えには、愛もあれば利益もあるだろう。
その利益とは〝私たちはこれほど心配している〟という感情表現をぶちまけることによって得られる、親の立場の潔白だったりもする。

だが、ここで考えておかねばならないことがある。
それは、刀をさやから抜いてはいけないということだ。
刀とは刃物であり、刃物とは悲劇的感情だ。大切であればあるほど、重篤であればあるほど、悲劇的感情は積み上がるもの……。
怒りと悲しみ。とまらない涙……患者の知らぬところで嗚咽するときだってあるだろう。だが、ひとつブレーキを踏み違えば希望を捨てた悲劇的感情に様変わりする。
だとしても、患者の前ではさやから抜いてはいけない感情なのだ。
統合失調症患者家族の踏ん張りどころは、そういうものではないか？



苦しんで苦しんで苦しみ抜いた患者も、やがて回復してゆくだろう。頑張って頑張って頑張り抜いた家族も、その後に咲く、患者の小さな笑顔に触れれば心の中いっぱいに涙があふれる時だってあるはずだ。いや、心からあふれ出た涙はほんの少しだけ頬を伝うかもしれない。
でもそれは、刃物のような悔恨の涙とは違う。穏やかで力強く患者の孤立に働きかける家族感情だ。
封じ込め続けた刃物のような感情は、切なくともあたたかな涙となり、過ぎた怒りと悲しみは消えてゆく。