統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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大切な人が統合失調症を発症した時〝なにも責めない誰も責めない〟それがルールだ

なにも責めない 誰も責めない。それがルールだ。

統合失調症の発症に対する家族の考え方として、なにが原因で発症したのか? なにが悪かったのか? 誰のせいか? と思案を繰り返せばやがて〝なにかを誰かを責める〟ことによって精神的混乱を鎮めようとする。
けれど責めてはいけない。



なぜか?
まず、統合失調症の発症原因を〝特定〟することはできない。もっとも、〝特定にかぎりなく近い推測〟であれば可能だろう……。家系をさかのぼった遺伝的要因、就業や結婚などのライフイベントとの因果関係、それらを詮索すれば少なからず推測の精度もあがるのかもしれない。
だが、遺伝や育て方に接し方などに悔恨の念を寄せたところで、たかが〝特定にかぎりなく近い推測〟によって統合失調症患者に利益がもたらされることはないどころか、身の回りで起こる自分がテーマとなる喧噪に患者の精神状態はますます悪化するだけの話だ。
そして、うつ病による労災請求などの特異な事例を除けば、支える立場の者が精神疾患発症の原因を追い求める行為は単なるエゴでしかない。

子供が、親が、配偶者が、恋人が、親友が……統合失調症になった。どうして? そして誰かを責める、なにかを責める。
しかし、責めることでなにが得られよう? 責めた先に答えはない以上、答えを求めて今度はなにを? 誰を? 責めるのか?
責めるとは負の連鎖であり、結局は自分を責めることに帰結してしまう自爆的行為ではないか。


〝しかたがない〟という言葉がある。
ともすれば、いいわけがましい印象もするが僕には少し違うイメージがある。
「病気になったことはしかたがないことです。誰も悪くはありません」
妻の病状をよそに、誰のせいで精神病になったんだ? とする家族間感情が渦巻いていた時期のこと。とある精神保健福祉職の方から言われたものだった。
正直、救われた気持ちになったことが記憶に残る。つまり、妻が統合失調症を発症したのは夫が悪いとして責められた僕を毅然とした態度で肯定してくれたのだった。

なにも責めない 誰も責めない しかたがないこと
軽い感じがしないでもない三つだが、絶望という青く深い海に希望のカケラをさがすからこそ大事な三つだと思う。
責めるほど絶望にしがみつき、原因をさがすほど誰もが傷つく。
責めぬほど現実と真実を知り、しかたがないと思える心は希望のカケラをさがす力だ。

とは言え、愛の深さに比例するほど感情は混乱するものだ。
大切な人が統合失調症を発症して平静を保っていられるほど人は強くもなく、世の中の偏見は優しくもない……。
だとしても、子供が、親が、配偶者が、恋人が、親友が……統合失調症になれば戸惑いと悲観に心がつぶれてしまうのは揺るぎない〝愛〟があるからに他ならない。
もし支える者が自らを責めるのなら、自らの愛の深さにも気づいて欲しいと思う。そうして〝しかたがないこと〟と考えることで自分を救ってやって欲しいと思う。すると、不要な混乱を排除するとともに必要な冷静さを身につけるだろう。
救われた自分は、きっと患者を愛で救うはずだ。
それが希望に向かうということではないだろうか。

季節は秋へと移ろう今日この頃。
僕の妻が医療保護入院となったのもこの季節だ。うまく言えないが季節の変わり目は精神状態の変わり目であるようにも感じている。すなわち、今の時期に発症する人々とご家族は多いのではないか? と思うのだ。
入院、閉鎖病棟、行動制限……。加えて、目を覆いたくなるような患者の人間的変化。
家族ははじめて直面する過酷な事実に疲弊し混乱するだろう。
そんなとき、もしよければ思い出して欲しい――。

〝なにも責めない 誰も責めない。それがルールだ〟



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