統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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保護室での希死念慮と生きることへの約束

 そもそも、人は生を受けた瞬間から生きようとする本能を備えるのだと言う。
反面、その本能を覆してしまうほどのライフイベントや挫折を経験するのも〝人〟である。
さらに、失われた生への本能を呼び戻すことができるのも〝人〟ではないか。


――発症直後、生きる本能はみじんもなかった彼女である。
保護室の中では生きることではなく死への欲求が勢い立つ状況でありながら、常に悪魔のささやきのような幻聴が死に方をふっかけてきたそうだ。
自死への衝動性に加えて、自分を守るために自死するという混乱した精神状態。
強いて言うなら、生きているのは生かされていることであって、病棟内で眠るのは欲求ではなく現象としてであり、つまり薬の力だと言わざるを得ない。
だからといって、薬物による過鎮静を一方的に否定することもできない。むしろ、今、生きていることは生かされていたから実現したのであり、家族感情を安易に持ち出すだけが正論でもない。勝手な話だが、精神医療の光と影について考えようとするとき、僕はいつも正論と異論がごっちゃになる場合がある。つまり、白か黒かで結論を出すことができない場合があるのだ。
ともあれ、一度は消えたであろう妻の生きることへの本能。それが、いつしか呼び戻されたかのように僕の目に映った時のことを書きたい。

保護室への入退室や身体拘束の実施と解除が繰り返されている頃。
病院からは妻の希死念慮について再三聞かされた。
病棟で過ごす妻のことを考えながら布団に入るものの、やはり僕自身も寝付きは悪い。真夜中にコツンと何か物音がしただけで、ビクッと不吉な予感がしてしまう僕は、朝まで待って病院から電話のかからないことにホッとする日が続いた。

病棟で死を実行してしまう患者のケース……。
そういったことを聞かされる僕には、生きようとする彼女の本能がいかに脆弱であるかを常に思い知った。本能とは理由もなく意識もなく生じるものであろうが、それゆえにもろいものかもしれない。だからこそ、病勢という衝動に難なく折れてしまうことさえあるのだろう。
病には生きようとする本能さえも覆してしまうパワーが、たしかにある。

そんな彼女から、希死念慮が消えつつあると感じたのは〝ひきつった笑顔〟を僕に向けるようになった頃だっただろうか。
ひきつった笑顔。それは読んで字のごとくだが、例えば10分以上の長い沈黙の中に〝うれしい〟という言葉ひとつと〝ひきつった笑顔〟がひとつ。
合わせてふたつのアクションだけが存在する僕と妻との心理的空間に、僕は彼女が生きようとしていることを確信する。
いったいなにが嬉しいのかはわからないし、むしろ興味さえわかない。けれども「う・れ・し・い」と、今にも途絶えて消えてしまいそうなトーンで発する喜びと力ない笑顔には、病魔のささやきには負けやしない彼女の生存欲求を感じずにはいられなかったのだ。
看護師には「死にたい」ともらす彼女だったが、僕には死にたいとは言わなない。なぜか? と考えても僕にはわからなかったが、ひょっとしたら僕に死を語らないことが生きることの僕への約束だったのだろうか……。

仕事が休みのたびに足繁く通う面会。
見た目には病状の代わり映えしない妻だったから、わざわざ遠く離れた入院先に面会に行ったところで余計に混乱させてしまうだけだとする意見もあったが、僕には〝そっとしておく〟ことに理由がつけられなかったし、面会に行くことで僕自身の心が折れてしまいそうな暴言を浴びせられたことは数知れずだが、せめて一週間おきの面会であればリアルタイムで妻の生存欲求を受け止めてやれることができていた。
それは、頻繁に出向いた面会の成果ではないかと思っている。



少々荒っぽい表現ではあるが、妻は統合失調症によって社会的精神性が倒壊し、だからといってあれもこれもと処方された大量の薬によって身体的にも損傷した。
それでも、彼女は〝死ね死ね〟と耳元にまとわりつく病魔と闘いながら、医療と愛情と希望と運命に支えられて、今を生きている。
そんな彼女を見ていると〝変わったな…〟と感じる時がある。
えっ……? こんな人だったかな?
と、そんな発見もある。
あるいは幼少期に無意識に抱えていたであろう生きづらさを、今になってちょこんと僕に差し出すかのような素振りは、彼女が過去も未来も気にかけながら自分探しを始めたのかなと深読みしてしまう時もしばしば。
きれいな風景をきれいだと感じる、たわいないできごとに喜んだり、笑える。
それはまるで、背中にしょった生きづらさをバーンと放ってしまったからか? と思わせるような心の軽さでもある。

治療により回復し、退院の時期となりやがて地域へ、家庭へと帰る患者たち。彼らがそれぞれの居場所に帰ったとき、精神疾患によって一度は〝自分から脱線して しまった〟ものの、自分らしさの呼び戻しとか、あるいは自分探しの旅とでも言おうか……過去も未来も気に掛けながら、再び人生のスタートラインに立つだろう。
そして、その人なりの幸せとか希望とか答えとか、自分探しの旅は生きるモチベーションだとも言える。

発症前と現在を比較すれば感じる、自己の人間的変化。
発症前と現在を比較すれば感じる、決して負け惜しみではない自分なりの幸福感。
人生を二度生きる妻を見ていると、やはり人は強いと…あらためて思う。



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1 件のコメント:

  1. こんにちは。
    とても興味深く読ませて頂きました。
    また、自分が発症した時と重ねてしまったりもしました。

    人間って、強いですね。

    返信削除

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