統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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感じることと考えること

人は考えないでおこうとすることができても、感じないでおこうとすることはできない。
感じることと考えることの違い。
それは意識的に抑制できるのかできないのかではないだろうか。
両者は互いに切り離せるようなものでもなく、日常的に絶えず行き来しているためについ混同しがちだ。

人が、とるべき行動を選択する場面において感じるままに行動する、つまり感情に向き合う状態で行動した方が本来は楽であるはずなのに実生活においては理性や他者の尺度を意識した行動の選択を迫られる機会が多く、そのような場面では感じるままではなく冷静に考えた末の結論を用いて行動した方が安心感もあり、たとえ行動が失敗という結論に達したとしても考えた末での失敗であれば納得もしやすい。

このように、人は感じるままに行動したい反面、冷静に考えた方法を選択することの方が多いのかもしれないが、だからと言ってあまりに考え過ぎてばかりいると様々な葛藤を生み出してしまい精神的に健康を害してしまうケースもあるのかもしれない。
つまり、日常生活では感じることと考えることのバランスが保たれていることが望ましいと考えられる。

自分の感情に反した打算的な考え方と、正論を否定してしまう抑圧的な感情。
双方が互いに反発しあうのではなく歩み寄ることのできるようなコントロールができる心のスタンス。
それが、その人なりの環境の中でその人なりに生きていくための必要条件であるのかもしれない。

僕は妻の入院中、この感じることと考えることを自分なりにコントロールできるような状態ではなかった。
切羽詰まった現実に対して感じることと、冷静に他者の意見をとりいれながらも考えを整理していくような余裕もなく、激しい葛藤だけに揺さぶられていた僕は随分と疲弊していた。
たとえば、病状的に僕に敵対心を向ける妻に対して、主治医のように冷静に論理的に病状の経過の一部として受け止めることができたならばきっと楽なはずなのに、妻への愛の感情が冷静に現実を捉え考えることの邪魔をする。
まさにそれが、今ここにないものを信じ切れぬことだったのではないだろうか……
今はこんな状態だが、薬の効果がでるまでには個人差もある。治療自体に明確なプロセスが存在せず薬の種類や量を少しずつ変えていきながら様子をみていくしかないこの病気。
一分でも早く妻を楽にしてやりたいと思う感情をぐっとこらえて先々の明るい未来だけを信じ続けること。
統合失調症の患者家族である立場においても、感じることと考えることのコントロールはとても大切なことだと思う。



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