統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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統合失調症の親を持つ少女 担任の手首には深い爪痕が刻まれていた

統合失調症で通院加療中の妻と働き盛りの夫、そしてまだ小さな子供。
何もかも病気のせいにするつもりなんてないが、家族生活に精神病というものが存在する以上、病状の起伏により家庭環境に大小の問題を抱えることは避けられず、それは患者だけの問題でもなく病気の引き起こす諸問題は家族全員のものでもあった。

二人の子供達にとって、前触れなく感情の起伏を起こす母親の態度は紛れもなくストレスであっただろうし、ほとんど家に居ない父の存在はあまり頼れるものでもない。母親と子供達ではなくて母親の病気と子供達との間で上手くパイプ役を務める必要があったはずなのに、仕事の忙しさにかまけて、もうどうにでもなればいい! そんな投げやりな気持ちに駆られたことなんて一度も無かったと言えば嘘になるだろう。


子供の小さいうちは平日の学校行事や週末の家族行事等、家族のイベントが華やかな時期でもあるにもかかわらず、僕達の一家は何をするにも病気に合わせながら、病気を見合わせながらというどこかしら影のある暮らしぶりだった。
パパがいつもママをかばうのはどうして?
楽しみにしていた週末のお出かけを、ママの気分ひとつで中止にしてしまうのはどうして?
パパは私よりママが大切なの?
子供なりに家庭の事情というものをもう少し理解してくれたならと考えることはあまりにも虫が良すぎる……。

快活でお喋り上手。小学校の行事にはいつも参加して他の母親連中とのコミュニケーションも良好な友達の母親。
それに対してか、口下手で母親同士のコミュニケーションが苦手、子供にしてみれば説明されてもよくわからない病気を持つ自分の母親。
どうしても、他の母親と比較して不満を募らせてしまうのは自然なことで、納得できない親への疑問は、解決のしようのない不満へと変わる。
結果、学校への行き渋りを見せた我が子の小さな胸の内を思えば今となっても胸が詰まる。


それまで、妻の病気に関する一切の事柄を伏せていたわけではなく、学校に対しては母親が病気がちで……といったニュアンスの説明に留めていた。その最大の理由は、やはり子供への不利益を危惧していたからだ。
子供のことを思えば色々な意味で学校に相談もしたいところだが、中高に比べて小学校は保護者や地域とのコミュニケーションも盛んに行われる。保護者会なども含めて、母親が病気がちで……と説明する以上のことを公言してしまうことにより、万が一よからぬ噂でも流れてしまうことを考えると、そのような表現以外に術はない。
それに加えて、先生への遠慮も確かにあった。
小学校は六年間通うものだから、担任の先生というのは最大で六人の方とめぐりあうことになる。中には、込み入った事情は私よりも教頭先生と話した方がと距離を置く、付かず離れずのスタンスの先生。
学校への遠慮、偏見への警戒。いろんなことが合わさって混乱する父親の精神状態と病状の起伏により落ち着かない母親、それを一番身近に感じ取る子供達の混乱。
小学生らしい屈託のない笑顔とは真逆に、何処かしら大人の顔色を伺うような子供達の表情は、混乱する家庭環境を物語っていた。


その頃、小学四年生だった下の子は欠席や遅刻、トイレの失敗が頻発していた。
当然、担任の先生は心配して連絡をくれるのだが「ご家庭で何か?……」と聞かれたとて言葉を濁すしかない僕の態度は、先生にしてみれば余計に勘繰りを与えるものだったのだろう。

ある日、所要により学校に出向いた時のこと。
何故だか保健室で話をすることになり、少しの間待っていた僕を見つけると長い廊下の向こうから一生懸命走ってきた担任の先生。
「待たせてすみません!」
にっこりと微笑みながらも少し息が切れている。
鈴木先生(仮名)は僕よりも二回りほど年配の男性教諭で、教師としては超の付くベテラン先生だった。
しわくちゃの笑顔と、若い先生方に負けない活力を感じさせるキャラクターが印象的な人。
その日、本来は別のお話で学校を訪問したはずが、成り行きのごとく家庭問題について会話は流れた。

いつもながらに何か言いたげにも言葉を濁す僕の態度を察した先生は柔らかな声で言葉を投げかけてくれた。
「お父さん、あんまり一人で抱え込まなくてもいいんですよ」
「……」
長い沈黙が続いたが、先生は沈黙を回避しようと何かを喋り始めるわけでもなくただじっと時間だけが過ぎていた。
人は、沈黙に付き合ってもらえると落ち着いた気持ちになれるものだと思う。
ぎゅっと閉じられたような気持でうつむき加減でいた僕が、ふと鈴木先生の顔を見ると穏やかな視線と目が合う。
すると先生はおもむろにシャツの袖口をまくり始めた。
「私だって、ほら……」
鈴木先生の手首に残る、爪でえぐられたような沢山の傷跡。
「弟が自閉症でしたから……」
もの悲しくも激しくも取っ組み合う情景を思い浮かべた途端、自分の気持ちの突っ張りがスッとほどけたように感じた。
この先生は多分、僕が言わずとも大体のことを察していたのだろうと思う。
その時、鈴木先生の手首についた爪痕と何かを重ね合わせようとする僕は、無意識に孤独感のようなものから解放されていた。

人が思い詰めた悩みや問題を誰かに相談する時に、立場や専門性に対して頼ろうとする場合もあれば、人そのものに対して頼ろうとする場合があると思う。
教師だから……、守秘義務を持っているから……
ケースワーカーだから……、専門家だから……
勿論、立場や専門性からによる助言が価値の高い場合もあるだろう。
しかし、似たような傷を持つ者から感じ取る共感や分かち合いにより、自分なりの解決力を呼び覚ますことの大切さは確かにあるはずだ。



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