統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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統合失調症患者への接し方 | 治療者よりも患者を知っているのは家族だ

統合失調症患者への接し方にデフォルトはない

統合失調症患者の症状や病状の経過がそれぞれ一様ではないように、家族の対応は個別の家庭環境が違えば対応レベルそのものが違うわけであって、当然ながら他家にできることと自分達にできることは常にイコールではない。
例えば、患者家族の関係が親子、夫婦、兄弟、単身者によっては生活環境も世代間による価値観や体力的条件も全く違うわけで、先の認知症男性によるJR踏切事故のように法的に一律に介護義務を問われる脅威は、病院から地域へを謳い文句にするこれからの精神医療改革路線に照らせば齟齬を感じずにはいられない一例だとも感じている。
また、怖い、近寄り難いなどの社会的偏見と誤解をどうしたって避けられない一面を持ち合わせる精神病患者への家族の対応は、孤立感と苦悩を深め、どうすることもできないと閉塞的になればなるほど窮地に追い込まれてしまう。

体験しなければ共感が困難な疾患

ありふれた病気でありながらも、予備知識の無いまま当事者となってしまうことが大半だと思えるこの病気。
いざ、関係者となってはじめて病気への知識やその独特の苦悩に苛まれるようになるケースが多いのではないだろうか?
この独特というのは、患者の苦痛が身近な家族であっても理解し難いことであったりする。
痛みという症状は誰もが経験済みなことだから理解しやすく共感し易いものだが、姿も見えない誰かが自分に執拗に話し掛けてきたりする幻聴という症状を他者が理解することは容易ではない。
いや、容易ではないと言うよりも、その幻聴が聞こえてきてしまう患者本人ですら理解できないことを、家族が理解しようとすることの限界。
だから、患者と同じ経験ができないことに対してわかろうと頑張るほど結果的に患者の体験を否定してしまうことになりかねない。
大事なことは、理解できないことを理解しようとするのではなく、目の前の患者の病的体験を認めてあげるということ。
苦痛を抱える患者を目の当たりにしながら何かしてあげたいともがくことよりも、患者自身が受け止めきれない重荷を共に受け止めてあげるということは、理解ではなく認めてあげるという言葉の方が似合うかもしれない。
また社会性の欠如という問題では、世間体を人並みに重んじる平凡な家庭に一風変わった行動を起こす家族が一員であることの気まずさや負い目は当事者でなければわからない苦悩だろうと思う。さらに、一風変わった行動が他者への迷惑な行動へと変化していった時の家族の苦悩も計り知れない……。


助言はマイルールにはなり得ない

精神科病院で配布される、家族の対応や接し方などと題された小冊子。または、書店に並ぶ関連書籍など、その大部分は親子を題材にしたものが多数だと思う。
イメージとしては、精神科病院での入院を経て自宅に戻った青年層の患者への接し方に関する、親御さんへのアドバイスといったところか……。
教科書的にまとめられた内容には、患者の持つ生活のしずらさへの対応や、患者が幻聴等の症状を呈した時の対応について、なるほどと思うポイントに触れられたものも多く、配偶者が統合失調症であるといった自分にとっても参考になる箇所は確かにある。
だが、既述の通りで当事者像の違いに加えて病状の経過も含めるとやはり自分だけのポイントというものは自分だけにあるのではないだろうか?
勿論、そのために病院所属のケースワーカーや地域の福祉職員による、個別のコーディネートが力になってくれるのだが、ある意味で相談援助というものは答えを当事者に帰結させるプロセスとなっているので、最終的な対応のポイントというものは、やはり当事者がつくりあげていくものだと思える。

つまり、統合失調症患者の家族の対応について、教科書的な数々のアドバイスは確かに参考にはなるが実際のところ、その答えは個別性の数だけ存在するのかもしれない。
だからこそ、掛かっている病院から得るアドバイスを軸に、インターネットからの情報収集や、他者の体験を知ることは、自分達なりのベストな対応や接し方を模索するための知恵となり勇気ともなり得る。
病気について学んだ知識は自分に合った自分だけの知恵に変わり、他者の体験談を知ることによって今までの自分の不安がこれからの勇気に変わる。
答えは与えられるものである以上に、苦悩と疲弊した経験を土台としながら個別に築き上げていくもの……。


私たちの場合

それなら、僕自身は家族の対応についてどんな事柄をポイントとしているのか?
まず気付きという点では、妻の言動の癖について一番良く知っているのは主治医ではなく自分であると思っている。
親子以上に長年生活を共にしている以上、どこか何かがピンとくる感性のようなものは合理的ではなさそうであっても案外、的を得ていることも多い。
このことは妻の症状を精神医学的に一番良く知りながら合理的に考えてくれる主治医とは別に、日頃の暮らしぶりを把握しながら「いつもと違う」をいち早く察知できるキーマンであらねばという思いを含んでいる。
家族は、患者の治療についてを信頼できる精神科医に協力する他ないが、患者の人という部分について誰よりも詳しく知っている唯一の人物。患者が安心して過ごす為の生活環境づくりと自立の支援、また主治医と患者のパイプ役としての働きは医療と同レベルに大切な事項だと思う。
その考えをなんとなく肯定してくれているような気にもしてくれたのは、厚労省のサイトに啓文されている、家族も医療チームの一員なのですよという一文。
そして、現場の第一線にいる精神科看護師の方から頂戴したツイート「われわれ医療従事者は船を漕ぐ人、舵取りは家族だと思う。そして患者さんを乗せ、船を進めていく」という言葉には、なるほどと思うと共に病院や精神科医を家族の立場で見極める際の大きなアドバイスだなとも思えた。
その病院についてだが、個人的には単科の精神病院がやはり頼りになるのではないかと感じている。
地域内にそのような信頼できる病院が存在するかどうかは人によりけりではあるが、精神科だけで運営されている病院は、経験的に総合病院の精神科であるよりも対応がきめ細かく、時間外の不測の事態によって電話を入れたとしても、この時間は精神科の先生が居ないのでと応対されてしまう不安材料もない。
もしもその不測の事態が起こってしまった場合、精神科救急の受付を経て、行ったことも見たこともない遠く離れた地の精神病院に入院せざる得ないケースがある。
それは、紛れもなくこの僕達夫婦の体験に該当する……。
また、デイサービスセンターが併設されている病院が多く、精神疾患患者に対して通院治療から入院加療、そして社会復帰へのサポートや相談窓口といった、点ではなく線としてのサポートは患者家族共々、強い安心感があるものだ。


そして、日常の妻との距離感は付かず離れずというスタンス。
統合失調症患者は対人関係に敏感ですよという話に妻も例外ではなく、人との関わりは積極的ではない。このことは家族内であっても同じで、ひとつの出来事に僕や娘からダブルで口出しされたり、やり取りの多すぎる長い会話は妻なりにかなりのエネルギーを消費する。
また、状況判断や決断力の乏しい妻を混乱させるような会話は家族関係そのものに不信感を抱かせてしまう要因ともなりうる。
何から何までしてあげる、考えてあげるという接し方は自立性を損なうだけに、妻が穏やかで過ごしやすい生活環境に恵まれながらゆっくりと脳を休めるためには、できることと出来ないことへの介入のさじ加減ひとつに左右されるところが大きいと考えている。


それでも、家族として常に頭の片隅に置いておくべきことは再発という問題。
刺激の宝庫とも言える世間の中で生活していくということは、やはり防ぎようのない刺激というものが存在している。
例えば、著書の中で触れた体験談のように、バスを待つ乗客の順番をうまく把握できなかった為に、順番を抜かされたと勘違いした他人に相当な暴言を吐かれた時の妻のパニック状態は、今、思い返してみてもハラハラする出来事だ。
笑い話になるかもしれないが、もしもその時僕が横にいたならば、咄嗟の行動で妻の両耳を手でふさいでいたかもしれない……。
他にも、コンビニエンスストアで簡単な買い物をするにしても、レジで小銭を計算することに時間をとられ後ろの客に何か言われはしていないだろうかと想像すると、それこそもうずっと家に居てくれた方が安心ではある。
障がいの種別を比較する気なんてさらさら無いが、妻は車いすに乗っているわけでもなく、心に巻いた包帯は誰の目に映るわけでもない。
だとしても、妻には外の空気、人の気配に触れて欲しいという思いがある。
生活のしずらさというものは生活を経験していく中で少しずつでも向上していってほしいという願いもあるし、少し遠慮しながらでも外に出て太陽の日差しを浴び、人と触れ合うことはとても大切だと思うからだ。
そのような意味では予期できぬ再発を恐れるよりも、家族の対応如何で起こるべくして起こる再発を抑止することに重点を置いている。

接し方と対応を根っこで混乱させるものは感情

ところで、このブログに寄せられるメールは主に統合失調症患者の御家族からのものが多く、一通一通のメールの内容からしても、御家族の抱えている問題は個別性に富んでいて立場も様々。
そのうちの一通、家族の考え方に必要なものは何か? というEさんのメールには、発症原因にこだわることは解決の糸口にはならないという内容が強調されていた。
このことは、発症原因に執着することによって生じた親族間の確執が僕の体験上に存在することについて、Eさんは警鐘を鳴らしてくれているのだと受け止めているのだが、当然ながら僕も同意の一言に尽きるのです。
発症原因を仮定してそれに執着することは何の役にも立たぬどころか、自分自身を極度に疲弊させると共に、患者を含む関係者が互いに傷つけあうだけの話。

精神病患者を支える家族は、社会からの偏見や誤解により抱える問題を専門家以外には打ち明けにくいという一面も有る為に、孤立化しやすいと言われることがある。
確かにそのとおりではあるが、そこで忘れてならぬことは患者自身はもっと孤独感に浸りやすいということだ。
患者が何処となく感じる社会からの疎外感に加えて、本来ここだけは自分らしく過ごせる唯一の生活空間であるはずの家庭の雰囲気が、育て方や接し方がどうだったからと嘆かわしさの漂う中で過ごさなければならないことはあまりにも悲しい。
そして、患者にしてみれば自分の周囲で起こる親族の愛憎劇は茶番劇以下のなにものではないはず……。

大切な家族が統合失調症を発症して入院してしまう。
その時、家族に求められる対応は、病気への理解と学習にいそしみ、やがて退院して家庭に迎え入れる時のための環境整備を整えておくことに時間を費やすことが必要であるのに、精神科医ですら今後の見通しについて歯切れが悪くなりがちなこの病気への不安や戸惑いが先行してしまい、それが時として自分を責めたり何かのせいにしようとする行為は深い愛情あってのことだとしても……
百害あって一利なし。
これは自分が身をもって結論付けた答えでもあります。
患者を囲む家族が支え合い協力し合うことは理想ではなくて必要条件であるはずです。

――家族とは患者にとって唯一の心許せる存在。
――家庭とは患者にとって唯一の心温まる居場所。
JR踏切事故参照url



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10 件のコメント:

  1. 発症して30年の母が、3月29日に6年振りにまた入院しました。家族の病気について色々調べていたところ貴方のブログを発見致しました。
    こういった状況には慣れていたつもりでしたが、いざ入院となると…ベッドにくくられてる母の姿にぐっとくるものがあります。

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  2. 精神病者にもいろいろ性格があるので、家族の対応もちがってくると思います。
    激しい性格であると、こちらまで、巻き込まれ、疲れはて、綺麗ごとを言ってられなくなります。

    返信削除
  3. 中学生の息子の同級生のお母さんが発症しておられます。玄関を出てすぐ彼女のお宅が見える距離に住んでいます。お会いすると立ち話、出かけるとお土産を交換する程度の仲でしたが、ある日メールアドレスを交換したいとわざわざいらして下さり、私は彼女が好きだったので喜んで教え合いました。メールの中で徐々に親しくなると、実は統合失調症なの、と打ち明けられました。近所では悪意ある噂が流れているのを知っていましたし、なんとなく精神疾患があるのかな、と感じていました。ただ、接し方に困ったのが、彼女の方から急激な接近をしてきたかと思うと何か月も連絡が途絶え、お宅にもいらっしゃらないような・・・でも暫くすると犬の散歩をする彼女に会って、まるで数か月前の親しさをすっかり忘れたような彼女の態度に、統合失調症とはなんて哀しい病気なんだろうと思ったものでした。体調どう?と聞くと退院してきてすぐのタイミングだと、え?なぜそんな事を聞くの?と言わんばかりの不思議そうな表情。なのであまり聞いて欲しくない時期なのだろうと思っていましたが、また数週間から数か月すると深夜に泣きながら電話がかかってきたり、家族に迷惑をかけてとても情けないし辛い、いったいいつ治るのだろうと言ったり。私は、病気を受け入れる事も難しい病気だろうに、自分の状態を受け入れて入退院を繰り返しながらも通院も続ける彼女をとても偉いと思ったので、正直にそのままを伝えると分かってくれるのはあなただけだ、主人なんか全然わかってない・・・とさっきとは全く違う事を・・・
    これで何度目の事か、彼女がまた入院のためにいなくなってから、付き合うならば知識が無いとダメだと思い、私なりに調べてみましたが、やはり漠然とした本などでは実地に役不足でした。彼女は車の運転を禁じられているそうなので、家に缶詰めになっているのが一番辛い、出かけたいと言っていました。私は、食材を買うぐらいなら車で送ってあげようかと言ってしまってから、失敗したかも、と思いました。ご家族に相談もせずに勝手な約束をすべきではなかったですし、ご主人は彼女の事でアドバイスを求めても話題を避けたがるご様子なので、本当はむやみに接しない方が良いのかもしれません。でも彼女のメールや電話、突然の訪問を無視するわけにはいかず、私自身も彼女の助けになるならやぶさかではありませんが、方法が分からず悩んでいます。やはり病状にも個人差がある事でしょうから、ご家族に相談するか、それが無理ならば深く関わらない方が良いのでしょうか。

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    1. ご近所のあたたかい声かけは、当事者にとってこの上ない支援です。
      ただしここでのポイントは、先方の旦那様への〝ほうれんそう〟報告、連絡、相談です。

      「いつもと違う」言動があれば、ご家族に報告してあげる等、当事者と接しつつ家族と連携することが、あなたにも患者にも旦那様にも…三者にとってベストな関係だと思います。

      たとえば、旦那様から「こんな言動が見られれば教えてください」などという要望があるかもしれません。きっとそれは、その患者特有の緊急事態なのだろうと思います。

      そのような接し方であったり協力は、危機が結果となってしまってから対処するのではなく、危機が訪れてしまう前に対処することができます。ここがとても大きいのです。

      家族の力だけで統合失調症患者を24時間見守ることは不可能です。
      ですが、何人もの〝目〟が加わることによってその疲労は激減します。

      イメージとしては…「患者の力になってあげよう」よりも「統合失調症患者を介護している家族の力になってあげよう」の立ち位置で接することだろうと思います。

      そしてもうひとつ、接する者としての心得。
      それは、優しい気持ちと毅然とした態度で接することです。

      立ち位置と心得、このふたつがぶれないことが大事です。

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    2. ご返信ありがとうございました。
      彼女の場合、私に連絡してくる事そのものが緊急事態ではないかとも思います。彼女はご自分をある程度は把握しているようにも感じるので、体調が悪くなりそうな予感がすると元気になりたい思いが彼女に元気を装わせて躁になり、プレゼントを持って私を訪ねて来るのかもしれないと思ったりもします。
      私事ですが、病気だけが人間の悩みではないもので、彼女のご家族のために役に立てるのならばそれは私自身の救いでもあるのです。徐々にご主人の信頼を得て行きたいとは思っています。
      でも、迷いがあるのは、私と接触する事が彼女を悪化させているのではないかと思う事が何度もあった事です。
      例えば、岩崎先生のご助言の中の「危機」とは病状の悪化の事なのでしょうか。危機とおっしゃるからには相応の変化があるのでしょうね。ですが私には攻撃的になった彼女は想像もつきません。
      いつも通りの彼女から私に電話がかかってくると翌日には入院、と言う事が数回ありました。電話でも彼女を、これは大変、と思った事も確かにありましたが、電話ではいつもの彼女だったと言う事もあったからです。私が何らかの引き金になって彼女の体調が激変しているように思えて仕方がないのです。
      罪悪感も感じますし、もしかしてご主人が私を避けるのは実際に私と接する事が彼女を悪化させているとお考えなのではないかと思ったりします。ご主人と接するのは勿論、彼女との接触も後ろめたく思う時があります。
      最後の岩崎先生のおっしゃった「毅然とした態度」とは踏み込んではいけないラインがある、引き際を自覚して、と言う意味なのでしょうか。
      同じ歳の子供を愛する母親として、私は彼女と同等でありたいし、それが彼女のプライドを傷つけない接し方だろうと思っていますが、同等ではいけないのでしょうか。
      だとしたら、彼女には内密にご主人と連絡を取る?まるで子供に対するような扱いで?彼女に失礼なのでは・・・私には力不足のようにも感じます。

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    3. 文面から、入退院を繰りかえしている状況を察します。毅然とした態度というのは、病状として言動が逸脱しそうな気配であるときに相応の対応をするということです。
      ただし、相応の対応というのがこれまた難しく、その人の状態によります。つまり、相応の対応を判断できるのはご家族であったり主治医であったり、本当に当事者をよく知る者となります。

      仮に、ご家族に内密に連絡をしたとしても、それが患者の治療と安全に貢献する行為であるなら致し方ないものだと思います。

      削除
    4. 岩崎さんの書かれた本を今日初めて読み始めました。打ちのめされてしまいました。彼女のご主人がこの10年であれほどまでに痩せられた背景を想像してみました。

      今日は私の心構えが甘すぎる事をはっきり自覚し、初めて彼女の誘いを断ってしまいました。とても負担に感じ、時間が必要だと考え、またいたたまれない気持ちで恥じています。近所の心無い噂に腹を立てて、正義感だけで頑張ろうとしていただけかもしれない青さを恥じ、強く罪悪感を覚えます。私には友達でいる事しか出来ないのでしょう。それをご主人はとっくにご存じで、外部との付き合いはご主人の心の負担だとお考えなのかもしれません。ご主人のお役に立てると良かったのですが。患者ご家族も事情も考え方も様々で、みんな岩崎さんのようではないと言う事なのかもしれません。

      ありがとうございました。

      それでも、私は今まで通り彼女の友達です。

      削除
    5. 「彼女のご主人がこの10年であれほどまでに痩せられた背景を想像してみました。」

      この一文から、ご主人の壮絶な人生を察せずにはいられませんし、涙がにじみます。
      私が、患者家族は時に当事者よりも苦しむと考えるのはここにあります。もちろん、精神病の症状に苦しむ当事者はもっと苦しいということを理解した上での考え方です。

      さて、ひとつ追記させてください。
      ご主人を支援することは当事者である彼女を支えることです。
      「力になれることなら協力します、遠慮なく…ご主人ひとりでかかえこまなくてもいいんです…」
      こんな声かけを笑顔で差し伸べてあげてはいかがでしょう?

      医療や福祉だけじゃない、近所にも味方はいるんですよ。と、声をかけてあげるのはどうでしょうか。

      あなたの優しさと素敵な笑顔に、ご主人は見えぬところで泣いて感謝しているかもしれません。

      削除
  4. こんにちは。
    最近統合失調症の男性と付き合うことになりました。
    私自身は境界性パースオナリティ障害です。
    お察しかと思いますが、精神科デイケアで出会い、お互いいいなと思い付き合い始めました。
    それで、私自身統合失調症のことは詳しくは知らず、とりあえずインターネットで【症状】【付き合い方】について調べここに行き着きました。

    彼の症状とはあってないようなもので、幻覚を訴えることも、幻聴を訴えることも、話しが飛びすぎることも無く、正直たまたま付き合う前に病名を聞くまでは統合失調症などとは思えないくらいです。

    まだ【接し方】に関して詳しく知るまでに、彼が調子が悪いとメールを送ってきて、詳しく事情を聞きました。

    詳細は略しますが、作業所のトラブルでした。
    その内容に対して、相手の考えていることをまとめる作業をした後に、少し自分の考えを言ってしまったのです。
    その中には否定的な文言も入れてしまいました。
    しまったなと、後で少し後悔してしまい、その後は共感したり、提案をするようにしました。
    結果的に、抱え込んでいたことを話したことで軽くなったり、提案をされて自分の中で止まっていたことの背中を押して貰えたりでいい方向には行きましたし、助かったと言って貰えました。

    ですが、やはり私の中では否定的な表現(本人を否定では無く)をしたことはいけなかったのかなとわだかまりが残っています。

    今後はなるべく否定表現は使わない方がいいでしょうか?
    それとも、ケースバイケースで相手の状態を見ながらやっていった方がいいでしょうか?

    長くなって申し訳無いです。

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    返信
    1. 否定的な表現ではなくて「私ならこう思う」と、主語を自分にして話すのが良いと思います。
      加えて、絶対的に否定しなければならない時は『毅然とした態度」で望む。

      そのような接し方がお二人のラポール構築の軸となるはずです。

      削除

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