精神科医とのつきあい方について、体験による個人的な考え方を書きたいと思う。
とその前に、この国には精神科医と呼ばれる人がどの位存在しているのか? また、その精神科医が対象とする患者数は如何程の規模であるのかなどについて触れておきたい。
日本の医師免許所持者総数は約30万人、年齢階層別では30~40代がほぼ半数を埋めている。しかしながら、実際に医師として医療現場で活躍している人はぐっと減り、20万人強であるそうだ。
そのうち、精神科医の医師総数は約1万4000人。6万人台の内科医に比べれば圧倒的に少ないものの、1万6000人台の小児科医や外科医の総数と比べれば大差はない。この数が多いか少ないかの受け止め方は人それぞれだし、質の高い精神科医療を維持するための必要十分数であるかについても、容易く結論づけられるほど単純な問題でもないはず。だいいち、内科のように全人口に対して需要がある診療科と、精神科のような限られた人々が受診する科を見比べたとて需要数そのものが違う。しかも、根本的にこれらは全体数字であり、対人口10万人や対面積100㎞圏内の医師数を持ちだしてくれば、当然ながら各都道府県ごとの差、個別の生活環境ごとの差が浮き彫りになってくる。
ひとつの症例に対する見立ても違えば、処方される薬物の種類にも量にも治療者や治療機関による大差がある精神科医療。
精神を病み、抗精神病薬の副作用により身体活動能力も衰退した精神疾患患者が10年単位の長期的な治療を継続するには、現実的な生活圏内に位置する治療機関で信頼の置ける精神科医に掛かるのが望ましい、いや、最低条件であることは言うまでもないが、実際の生活圏内に良質な精神科医療機関が在るのか無いのか? これこそが、全体数字には価値を求めない当事者が抱えた、切実な問題だと思う。ドクターショッピング? そんな浮かれた言葉にも時々遭遇するが、適切で質が高く、自分の心とカラダのことについて本気で相談に乗ってくれるだけで良いという願いすら叶わぬ人々にしてみれば、ドクターショッピングどころではないのだ。
患者には医療を選択する権利があっても、行使する現実を有していない場合がある。治療機関や治療者を変更できぬことによって多くのことを諦めている精神疾患患者は、自身の人生を諦めざるを得ない状況に追い込まれていると言っても決して過言ではないはずだ。
次に、患者人口の規模について……。統計上で300万人規模だとされる精神疾患の患者数の疾患別内訳は、近年に急増したうつ病患者が上位を占めるが、社会的背景を問わず、過去から現在に於いて発症者数が常に一定数を示している統合失調症の患者人口は約70万人規模。もっとも、この数は精神科への通院や入院によって、すでに治療に繋がっている患者数から導き出した数値であり、人口の1パーセント近い有病率に照らせば、国内には100万人規模の罹患者が存在するとされる統合失調症は確かに決して類まれな疾患ではなくとてもありふれた病気。そう、確かにありふれている……すなわち、患者人口の規模は相当に大きなものである。
ここで、先程の精神科医の人口を振り返れば、100万人の統合失調症患者に1万4000人の精神科医。
あるいは、300万人超えの精神疾患患者に1万4000人の精神科医。
なるほど、生活に根ざしつつも閉塞的で孤立しがちな疾患が及ぼす問題の特性を踏まえたうえでこの分母差を補う為にも、患者支援には精神科医のみならず、看護スタッフ、心理職、福祉職、生活支援スタッフ、福祉施設に社会保障……そして家族という医療チームの一員。さらには、行政、精神疾患患者も含めた障害者雇用率が尚、上がるとされる企業、そこへの繋ぎ役である転職エージェント、また、社会的偏見という名の障害が理解へと形を変えること、などなど……多職種、多属性、多方面、世の中による関わりと連携が必要不可欠であることがおのずと見えてくる。
ところで、上記のような医療や地域社会による支援の仕組み、つまり社会資源に対して、当事者である患者家族が心得ておきたい大事なことがある。それは、受け身ではなく主体的、自主的であるということ。
最近では、保健所などからの情報を元にして資源側から当事者に働きかけるアウトリーチ事業という取り組みも取り沙汰されているが、実績と成果を上げながら各地域に浸透していくにはまだまだ時間を要するだろう……、やはり今のところ、当事者である患者もしくは患者の代弁者でもある家族は、種々の社会資源に対して主体的であるべきだと思う。なぜなら、いわゆる❝聞かれなければ何も教えない、言わなければ何もしてくれない❞的な通例により、社会資源を利用することのできる権利を放置してはいけないからだ。
さて、統合失調症を発症した妻と夫である僕。通院加療から入院加療、そして退院後の通院加療に至るまでには複数の精神科医と関係したのだが、ここから先は患者家族と精神科医との関係性において、悪い例とも言える自身の体験談について記してみる。
よく、プライドが高いと形容される精神科医。プライドの高さ故に患者や家族の言い分に耳を傾けない、治療方針に口出しするなと言わんばかりの高圧的態度……。あからさまに態度に表す精神科医も数少ないとは思うが、14000人の精神科医の中にはどう考えてみても理解し難い言動を伴う人は存在するようだ。プライドとは、おごることではなく誇りを持つということ。今どき、医者という職業に就くことが貴族的で経済的にも約束された人生を歩めるだなんて誰も思っちゃいないだろうし、そもそも人生を約束してくれる職業など今の時代には存在しない。精神科医はプライドが高いと形容される箇所から、おごりを差し引いたものとして僕は受け止めたいと思うし、医療業務に携わることで人の生死と人生に直接的にかかわる立場の者が職業への誇りを持っていてくれなければ、患者や家族などのユーザー側としても不安は絶えない。ちなみに、妻が統合失調症の急性期により閉鎖病棟に入院した時の担当医は、おごりも誇りも感じない人だった。
――女性急性期病棟に入院した妻を担当したのは若手の女医。
勤務医で精神科医の多忙さを態度で表現してしまう人で、医者特有の豊かさとか含みなどはもちろん感じない。そして、最初から最後まで❝大丈夫❞という言葉を口にはしない人。すなわち、在院中は院内ルールと医療者責任の許容範囲に沿った医療業務を行うだけの話であり、結果というものを勝手に期待されても困りますよというスタンスの精神科医。よくよく考えれば、医療業務は治癒の約束を取り付けられるようなものではなく、万全を期しても望まぬ結果に至る場合もあるだろう。けれどもここでの問題は、その医療行為の本質ではなく治療者のあからさまな物言いに在り、また、その言動を形成する人間性に在った。さほど多くの臨床経験もないであろうに、憎悪した症状が固定する予後不良患者はいくらでも存在するのだからと主張されてしまえば、この精神科医は病気と対決する気はないのかと錯覚してしまい、医療を受ける側である患者家族には治療者の使命感とか誇りとかを感じる機会はない。また、現状の治療環境に不服ならいつでも他院に移れば良いと強弁する態度にコメディカルの皆さんも追随するものだから、その病院組織そのものに対するマイナス感情にただ包まれるだけだった。
そんな、当時の担当医との関係の中でこんな記憶がある。
それは、担当医に対して〇〇先生ではなく、〇〇さんと呼びかけてしまった時の、怪訝さと困惑を掛け合せたような微妙な表情の変化に僕自身が少しドキッとした時のことだ。
もはや担当医に対する信頼が消失しつつある状況と、それ以上に人対人での関係悪化により、故意でもなく咄嗟に口から出てしまった呼び掛けだったのだが、相手にしてみれば先生を付けなかった患者家族の態度に、確かな苛立ちを感じたのであろうと思った。
勿論その時、馬鹿正直に「そんな呼び方をしてすみません」と謝れば、構いませんと言い返されていたであろうことは明確だが、精神科医とて人間。他家族からは常に先生と呼ばれていた患者家族とのつきあいの中で、おもむろに〇〇さんと呼ばれてしまっては動揺の色は隠せなかったはずだ。そのことは、例えば用事があって病院に電話をかけた時に〇〇先生は居ますか? ではなく、〇〇さんは居ますか? と発言した時に医事課のスタッフの「はぁ?」という反応にも共通していた。
えっ? なに? この人……。
事務員にしても、挑戦的とも思える僕の感情はリアルに伝わっていたはずだ。
その、挑戦的ともとれた僕の感情の中身とは……
薬が効かないのだから仕方がない、こちらとしてもマックスまで増薬を続けることで医療業務を行っている、隔離室送りや身体拘束は病棟内の秩序を重んじ、最も状態の悪い患者を優先して行動制限を行う、重篤であれば何年も隔離室を出たり入ったりするのは仕方のないこと、そして、入院させたのは家族でしょう? と、最後には全ての問題を家族に帰結させようとする、病院の方針と言い様に対する僕の全力の抵抗だった。
そもそも、精神科病院での診療行為は画像や機器を用いた生物的な検査によって成立するものでも何でもなく、言わば目の前の精神科医の見立てひとつで診断名、処方薬、処方量が決定されるのだから、たとえどんなに著名な精神科医に診察してもらったとしても患者心理としては病態が改善する以外に納得の術はなく、抗精神病薬の使用に関しては誰もが強い不安を抱くはずだ。薬とは効果と副作用がワンセット、つまり副作用のない薬なんてものは無い。さらに、精神科で出される薬の効果を知るには数ヶ月単位の時間を費やすもので、その間、表面的に目につくのはやはり副作用への体の反応……。そして、試行錯誤するかのように抗精神病薬の変更や増量を繰り返しながら、一方では副作用止の副作用止とも言える増薬が施されたりすれば、当初の不安が疑問と恐怖に様変わりしていく患者心理は否定できるものではない。
家族にしてもそう、精神症状にきっちりと作用してくれている手応えも感じられずに、肉体を溶かすかのような副作用の出現を目の当たりにすると、正直、辛い気持ちが患者以上である場合もあるはずだ。
今、ここにない未来を信じることが出来ない……。明日さえわからない患者と、明日さえ教えてやれぬ家族の気持ちは、いったい誰によって支えられるだろうか?
現在。転院、退院とステップを踏み、通院加療を継続中の妻。僕は、彼女の主治医に対しては特に意識することもなく、〇〇先生と呼んでいる。なお、現在の主治医は「大丈夫、心配いりません」という言葉を発言するタイプの精神科医である……。
以上、統計と現状、体験について書き表したところで、精神科医とのつきあい方について具体的なポイントを紹介したいと思う。
――精神科医はとても多忙な存在だ。この実情は、病院組織の内幕を細かく知らない患者家族であっても待合の混雑ぶりを見れば誰もが感じ取ることであるはずだ。300万人超えの精神疾患患者を診る1万4000人の精神科医は、医師としてより多くの患者を助ける使命を背負いながら日々の激務の渦中に身を置く人々である。病院組織の経営戦略を基点に精神科医の仕事ぶりを追えば、世の中には否定的なコメントも多く見受けられると思うのだが、精神科医に対する根拠なき偏見は持つべきではない。そこのところは、インターネット越しに埋もれたキャッシュの情報に混乱することのないようにしたい。
――家族の立場で患者に寄り添う人達が、心得えておくべきことがある。家族が抗精神病薬や治療方法についての知識を深めることは良い事なのだが、いくら頑張ってもそれは点の知識でしかないと、僕は思っている。臨床経験もなく精神科医でもない素人がいくら頑張っても知識は点でしかなく、数々の患者を診ながら縦横無尽に線で繋がれたような専門知識を有して医療業務を行う精神科医のそれとは全くの別物である。だからと言って、病気を知ること学ぶことを放棄してもいけない。知識太りでもダメ、無関心痩せでもダメ……そんなスタンスが大切ではないだろうか。
――患者の診察に同席するご家族も多数いると思う。ここで注意しなければならないことは、診察とは患者の為の時間であって、付き添いの家族に与えられた時間ではないということ。確かに、患者が発言しにくい部分を代弁したり、家族の視点から見た患者の生活状況の報告は治療の貴重な参考にもなるが、できれば手短に伝わるようにメモ書きしたものを持参して同席したい。もしくは、診察日までに到着するように予め郵送しておくという方法も、限りの有る診察時間を有効に使用するためには合理的な方法と言える。
――高い年代層でありがちなのが、菓子折りなどの物品を添えて精神科医に頭を下げる行為。ちなみに、義父がこのパターンの人物で、医者にちゃんと診てもらうには金を渡しておかないと……という褪せた慣習を現代に持ち越してしまっている人。今の時代に必要な行為ではない。
――治療全般に関連する様々な事柄について、精神科医と直接やり取りすることだけを考える必要もない。いろんな意味で精神科医に直接言いにくいことだってあるはず。そんな時、ケースワーカーにパイプ役となってもらう方法も有る。その行為に対して否定的になる医師だとすれば、残念ながら継続的な信頼関係を築けない相手であるのかもしれない。
――もちろん相手にもよりけりだが、精神科医は人生相談を持ちかける相手ではない。彼らの仕事は医療行為であって、症状に対して合理的な方法で治療を施していくこと。例えば、離婚問題について指南を仰いだとて相手も困るものである。
――服用している抗精神病薬への疑問点は積極的に問いかける方が良い。こればかりは遠慮する必要はなく、納得がいくまで説明を求めるべきだと思う。また、自身で入手した薬の情報や薬剤師から聞いた内容などから生じた齟齬についても主治医との話の中で整理するようにしたい。
最後に、精神科医は精神疾患という病気に関わる人でありながら、人と人生に深く関わる人だと……勝手ながらに僕はそう感じている。
統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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担当医との付き合い方というタイトルに思うことがあり読ませてもらいました。
返信削除私はもうすぐ50歳になる独身女性です。
正直、普通に結婚して子供も授かりたいです。
でも子供は完全に無理となりました。
普通に考えれば、私の様な者は結婚も難しいです。
結婚さえ、できない辛さ。
私は人間ではなく女性でもないのかって、深く傷ついています。
担当医にセルフケアができるようになってほしいと言われたとき、
私は見捨てられたと感じました。
患者から見て話がしやすい別の精神科医を探すのも、この歳では辛いです。
話しがそれてしまいました。
すいません。
負い目を払うことは簡単ではありませんが、生き方はひとつではないと思います。結婚しなかったから出くわすべき〝負〟にあわずに済んだということだってあるのかも…
削除もうすぐ50歳。ようやく人生の折り返し地点を返した辺り…と考えれば、まだまだ生き方は複数、あるやもしれません。