大切な人が精神疾患を発症した時、家族や恋人など当事者の人生に関係する者は様々な感情に支配されるものである。
不安、恐怖、困惑、嫌悪、悲観、絶望、空虚……。感情を正と負に大別するのならおよそ負の感情ばかりが無秩序に心の中を埋め尽くす。
とは言え、負の感情がごっちゃになるようにして心が疲弊していくように見えて、実は混乱する感情にはある種の変容過程が存在するとも考えられる。
この場合、しばしば引き合いに出されるのがエリザベス・キューブラー・ロス(精神科医/スイス/1926―2004)による〝死の受容 五段階説〟である。
この学説は、疾病により死期の迫った患者が自らの死を受容していくまでの心理的変容を五段階にモデル化したものだ。
〝死の受容 五段階説〟の概要
第一段階 否認
自分が病気であるはずがなく、誤診あるいはなにかの間違いではないか?
第二段階 怒り
自らが病気であり死期が迫っていることは、なぜ他者ではなく自分である必要があるのか? そのことに対する答えが存在せぬことへの怒り。
第三段階 取引
事実を否定、反論しても現実は何ら変わることはない。それならば、現実を回避するために〝病気を治してくれるなら財産を社会に寄付します〟といった神頼みを試みる。
第四段階 抑鬱
否定しても怒りをぶつけても事実は変わらない。前段の取引も成立はしない。重ねて病気の進行と体力の衰退により患者は深い閉塞感に陥る。
第五段階 受容
抑鬱感のなかで、これまでの感情的混乱に間違いはなかっただろうか? 死とは人の生と対をなす自然な事実であるなら、一途に否定や回避を求めるものでもないかもしれない……。
上記の五段階説を統合失調症あるいは広義での精神疾患の患者を支える人々の心模様に照らしてみると、なるほど、その心理的変容過程は類似している点があることがよく理解できる。
と同時に、僕自身の感情体験に照らしてみたとしても同様である。
――10年程度前に妻の精神症状が出現してからというもの、気分変調による生活のしづらさは在るにせよ、命令幻聴に従う・遁走・興奮状態といった激しい精神症状とは 距離を置いていた。だから統合失調症圏内ではあるとするものの、自分たちは山を下りてゆく過程にある患者と家族であるという認識を強く持っていた。にもかかわらず、10年越しに幕が上がった華々しい陽性症状。
このとき、僕は事実を強く否定した。これは統合失調症ではなく他疾患に違いない。その証拠に、どれほど抗精神病薬を増やしても変えても病状はちっとも良くならないじゃないか……。
また、隔離室に入れられ両手両足と腰をベッドに固定される妻に対して、その一瞬からでも苦しみと屈辱を代わってやりたいとも思った。
そして、この事態を解決する医学的で決定的な技術が存在するのなら借金をしてでもその医療の提供を受けたいとも考えた。だがしかし、解決策はなにひとつなく根気よく薬物療法に賭けるほかないとする精神科医の意見にうなだれるだけだった。
やがて、精根尽きた僕は強い抑鬱感にさいなまれつつ、それまでの感情的混乱を可能な限り客観的に精査することを試みながら、転院という行動に踏み切る――。
もっとも、僕たちの場合は主治医との希薄な信頼関係や昭和を感じさせる病院環境、親族による発症の原因探しなど、いくつかの問題が加わる格好になるので、配偶者の医療保護入院に関する僕の感情体験を既述の〝死の受容 五段階説〟にそっくりあてはめようとするのはいささか乱暴ではあるが、感情の流れ方としては似て非なるものでもないだろう。
ところで治療者側からすれば、患者家族の感情的混乱は〝治療への非協力的態度〟だとされる場合がある。とは言え、僕自身が医療保護入院者の保護者として協力的ではないと治療者から評価されたという話は、ひとつのケースに限った話に過ぎないのだが……。
治療者は患者が病気を受容できないまま時間が流れ続けることを病識の欠如とし、家族が現実を受容できずに精神科医に幾つかの疑問や不安を投げかけることは治療に非協力的な家族だと評価する。
このことを裏返して書くと、治療者は統合失調症患者の症状に向き合うのが仕事であり、ベッドに縛られて天井を見つめ続ける患者の悲しみと屈辱に関心を寄せる暇などない。
また、精神科医療という看板のもとで行う業務にいちいち不安を投げてくる家族感情に向き合う暇もないだろう。
だから、患者や家族のメンタルケアは看護師やケースワーカーの〝仕事〟だと投げておけばよいのだろうし、患者家族はさっさと現実を受容してもらわなければ〝仕事がやりにくい〟……。
そう、現実を手短に受容できた患者家族が治療に協力的で良い家族。と同時に抗精神病薬の増量で患者に深い深い鎮静効果が現れれば尚良し……。
もし、そうでなければ〝やりにくい家族〟〝予後不良患者〟の所見を取り付ける。だが……、感情というものは考えること以上に融通の利かないものなのだ。
統合失調症の患者家族。百人百様の問題を背負いながら手探りで希望を拾おうとするギリギリの感情でいとも簡単に受容に到達できる人はほぼ居ない。
あの日あのときの態度が発症の引き金になったのではないか? 今の治療環境は妥当なのか? これからの人生はどう変わるのか? 自他を責め、すべてを疑い、未来を不安がる過程なく現実の受容を急ぎなさいと言われたとて、それはとても困難な心の作業であるはずだ。
家族、恋人……。大切な人が統合失調症を発症するということ、精神の病におかされるということ。当事者を支え、関係する人々は、時に患者以上の苦しみを背負う場合がある。心理的、経済的、社会的、それらの苦悩に火を放つかのような患者からの敵意……。
それを思えば、支える者は病魔に試されるような苦しみを背負うことだってあるだろう。でもそれは、患者と家族のどちらが苦しいのかという低俗な比較ではない。両者はそれぞれの立場で苦しみ、希望のかけらを探し求めてさ迷い続ける。
統合失調症はありふれた病気だと統計数字は言う。しかし、ありふれた数字の影には百人百様の涙がある。悲しいかな、社会的偏見が涙を否定してしまうことだってあるのかもしれない……。
事実を正しく理解しながら現実を受容するとは字面にすれば簡単だ。
けれど、受容までの道のりは誰にとっても遠い。
統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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岩崎 様
返信削除こんにちは。リンク貼って下さったのですね。ありがとうございます。
申し遅れましたが、私も随分前に勝手に貼らせていただきました、作法が分からずすみません。
最近になってやっと「病魔に試されている」という言葉が、折れそうな私の心を立て直す言葉になってきています。それでも、病気のこと、医療のこと、家族のこと・・受容しきれないものはまだ沢山あります。
長い期間をかけて少しずつの変化というのは、患者の家族も同じですね。
今日という日が少しでも良い時間でありますように。
親子と配偶者。属性は異なりますが立場では同列ですね。折れかけても決して折れることはないのが、めもりーさんの強いところだと思います。もちろん、こういうことに強いも弱いもないのですが……。
削除現状を拝読する限り、苦労の重なる時期であるとお見受けしますが、短期での上がり下がりも長期で見れば緩やかな上昇ラインであったりします。
同じ空の下のどこかで、めもりーさんの頑張りとご子息の未来にエールを贈らせていただきます。
ありがとうございます。
返信削除>長期的に見れば緩やかな上昇ライン・・・性格のせいか一喜一憂してしまいますが、ゆったり構えていかなくてはいけませんね。
どこかで踏みとどまれる強さを授けられなかった患者の悲劇と それを持つ自分。一番辛いのは患者ですが、私たちも辛い。私は、同列の方たちの存在を感じることで、自分を鼓舞しているところが大きいです。
岩崎さんが親子でなくご夫婦のお立場でそれを引き受けられていることに敬服します。
どうぞお身体気をつけて、そして奥様との時間が穏やかでありますように。
めもりー