統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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命令幻聴によって行動が解体した患者を守るもの

僕がまだ小学生だった頃、歩いていて〝少し変わった人〟を見かけると、それはまぎれもなく〝変わった人〟であった。と記憶している。
そして、そんな人を目にすると違和感や不審、加えて恐怖とか軽視とか……子供心にざわついた感情を持ったことは事実だ。
つまり、変わっていることは個性だとして見過ごすことができなかった。

たとえば、親に連れられて電車に乗っている時。
ほかの誰とも調和しないような奇抜な服装とメイクに加えて一人なのに表情豊かな人がいたとする。
変わった人を注視することよりも変わった人を注視する人々を観察することの方が熱心だった僕は、人々が皆、チラリと見ては眉間にしわを寄せてうつむいてしまう空気を感じていた。
一方で、僕と同じように親子連れの場合ならば怪訝な顔をした母親が子供に対してなにやら説明している。
でも、決して〝指をさす〟ようなことはしない。そういえば、人に指を指したらだめだ! と、当時の子供はよく教えられたものだと思う。その代わり〝後ろ指〟をさすことで、普通ではない人に対する違和感と、普通である自分に対する安心感を得ていたのではないか?
どこか人と違う、変わった人であることは、いろんな意味で人々の気を引くことであり、普通ではないことはある種のタブーでもあった。

小学校ではみんな〝同じもの〟を持っていることが大事だった。
たとえば、スーパーカー消しゴム。
休み時間、机の上に披露するカウンタックの消しゴム。もちろん、人と違うものを持っていればの優越感はあるものの、それ以上に仲間が皆、カウンタックの消しゴムをもっている安心感がベースにあって、その中で〝色違い〟であることが個性の主張だった。
服装にしてもそう。夏に長ズボンをはく男子は皆無で、もしいたとすればまさに〝風変わりなやつ〟に該当する。
女子の場合なら、サンリオの黄金時代を象徴する〝ハローキテイ〟の文具を持っていることが教室での安心感ではなかったか。
つまり、みんながみんなと同じであることのためにアンテナを張っていた。
そしてアンテナは同じでない人や友達をもキャッチする。
アンテナが同じでない人や友達の存在をキャッチすると、良い意味では気を遣ったり心配をし、悪い意味では軽視や差別感情を持つことになる。
当時――。良くも悪くも、どこか人と違う者に無関心ではなかった。

それなら、今はどうか?
少々風変わりな人と出くわしても、それもこれも個性なんだから事情なんだからと、さして気にするようなことはない。
現代社会――。嗜好は富み、ものがあふれ、情報があふれ、価値観や生き方もあふれ、過ぎゆく時間の速度も速い。人は個性の表現と他人との差別化に努める。他人と同じであることに安心するのではなく、他人とは違う何かがあることに満足と価値を見いだす。
とすると、むしろ普通であることの方がある種のタブーでもあろう。

また、変わったことも、恐ろしいことも、驚くようなことも、みんなメデイアを通じて間接体験済みだから、反応レベルそのものが昔とは違う。
だから、それぞれの個性があちらこちらで行き交う世の中で少々風変わりな人が居たとしても珍しくもなければ、注目されることもない。
そんなわけで、今は、風変わりであったとしても〝後ろ指〟をさされることのない生きやすい時代だとも言える。


ところで、統合失調症にはいわゆる奇異な行動があり、空笑や独語がそれにあたる。公園のベンチに腰掛けている人がプッと笑ってみたり、さっきからブツブツひとりで会話をしているように見える光景は、おそらく〝風変わり〟であるはずだ。
小学生だった頃の僕が、そのままタイムスリップでもしてベンチの前に立ったならば気になって気になってしかたのない光景であろうし、まず家に帰れば〝風変わりな理由〟を親にとことん質問していただろう。

それなら、今はどうか?
他人に迷惑が及んでしまうような精神症状なら話は別だが、ある程度の安定期にさしかかった状況で残遺症状としての空笑や独語、また、個性的すぎるようなみづくろいは昔ほど目立つものでもなければ人々の気を引くこともないだろう。
すなわち、一見すると奇異で風変わりな統合失調症患者が居たとしても、昔ほど他人の気を引くものでもないということは、むしろ当事者や家族にとっては暮らしやすい環境だろう。



ところが、統合失調症には幻聴に導かれるようにして失踪してしまう場合がある。
――命令幻聴にああしろこうしろと言われた挙げ句、逃げろ逃げろ! 走って逃げろ! 次はどこに行け、あそこに向かえ! と、幻聴に言われるがままに家を飛び出してしまった妻。
思考は解体し、行動も解体する……。そんな状況だった。
〝言葉のサラダ〟なんて言い方があるが、そのときの妻は言葉も行動もサラダ状態だったと言えるだろう。
著書の中では、このときのエピソードを〝幻聴に連れ去られた妻〟と題して書いた。
そう、僕にしてみれば病気に連れて行かれたも同然であり、もし、最悪の結末を迎えることになるのなら病気に殺されたも同然だった。
幻聴には多くの体験例が存在し、それこそ人によって同じ症例などないぐらいだろうが、重症化するとほぼ完全に行動のコントロールが機能しなくなる。
言うなれば、死と隣り合わせの緊急事態だと僕は思うのだ。

結果として、妻は多くの人の目に触れる街中を徘徊する成り行きではあったのだが、おそらく妻の仕草や表情と行動はかなり風変わりな様子であったはずだ。
そのとき妻は、幻聴による失踪劇の最初から最後まで誰の気を引くまでもなく幻聴の言いなりになっていた……。
考えてみれば、すれ違う人々は瞬間的にでもちょっとおかしな挙動の妻を目にしているはずである。
だからといって、様子のおかしい女性がいると通報されたことによって保護してやれたわけでもない。

死と隣り合わせの緊急事態であったにもかかわらず、見た目は血を流して倒れているわけでもなく、むしろ薄笑いを浮かべるようにして快活な振る舞いで雑踏に紛れるのだから、他人の目から緊急性を感じ取るにはたしかに無理があったのだろう…。

通報により保護されていれば、病的体験の渦中で徘徊することによる危険性からたとえ少しでも早く助けてやれていたはずだが、おそらく、ギリギリの状況にあった精神状態が一線を越えてしまい生命にかかわるような事態でも発生しなければ救急通報などなかっただろう。
当たり前の話、精神状態のレベルがどれぐらいなのかは誰の目にも的確にわかるものではない。
加えて〝急性症状としての奇異性〟も〝安定期における奇異性〟も客観的には大差なく目に映る。


一本の通報さえあれば何年にもわたり失踪を続けてしまうようなケースはグッと減るのではないかと思うときがある。
妻の場合も病的体験と現実検討がめまぐるしく交錯する状況、あるいは、完全に病的体験の渦中でもなかった状況の中で、強い波がザーッと押し寄せたあとスッと引く一瞬のタイミングに携帯電話の通信がつながったという大きな偶然さえなければ、生命の危険にさらされる可能性は高かったはずだし、年単位の行方不明となっていた可能性は十分にある。
結局、雑踏の中ですれ違う女性に何らかの違和感を感じつつ、声をかけるなり通報するなりのプラスアルファの行動をとる人がいなかった理由は、風変わりな人が生きやすい反面の無関心さではないだろうかと考えるに至るのである。


――スマートフォンを持たずに外を歩く人なんていないんじゃないか? そんなことを感じさせる世の中ではある。
通報なんて言うと、たしかに聞こえは悪いだろう。だが、何かが起こってしまうその一歩手前で流れがかわることだってあるはずだ。無関心が際立つ世の中ではあるが、他人の危機に通信手段を用いてすかさず介入することができることを再認識しておきたい。
そうは言うものの、精神的な緊急事態は一般人の目にはなかなか見えづらい特徴があることは前出の通りだ。

そこでキーマンとなるのは、気分変動や病的体験による危険性を身をもって知っている患者家族ではないかと思う。
なぜなら、日頃から精神疾患に関係する人々の直感は、大げさだが緊急事態を見抜くほどの感度があると思うからだ。非関係者にピンとこない奇異であっても、病的体験を身近に体験する患者家族にはピンとくる場合が少なくない。

なんらかの精神疾患による患者数は300万人を超える。
ひとりの患者に関係する家族は単純に見積もっても倍を超えるかどうかというほどの規模数である。それは決して少なくはない、人々の数だと思う。
ちなみに……僕もそのうちのひとりだ。

幻聴によって、死んでしまえと命令されながらよろめき歩く人の重症度は、路上で倒れてしまった人の危険度に相当する。と、少なくとも僕は考えている。
暗い話になってしまうが〝おまえなど死んでしまえ〟と二人称レベルであった幻聴が〝私は死ぬことにする〟と一人称に変化したとき、精神的には重傷から重体に変化するようなものではないか?
だからもし、僕が奇異な様子の人とすれ違ったとしよう。もし、僕なりに放ってはおけないなと直感するのなら声をかけるだろう。
場合によっては通報だってするだろう。
ここで言う直感とは、統合失調症の配偶者と接していることによって体得したような、危険に対する直感である。
でもそれは、不審者を通報する感覚とはまるで違う。
健常者が身体的なトラブルで路上にうずくまっていたなら、誰だって声をかけ救急車を呼ぶのと同じことである。


〝病院から地域へ〟と謳う国策にともない地域ぐるみの見守りが必要だと耳にする。
認知症患者の踏切事故もしかり、物理的に行動を制限されることのない地域において家族の力だけで病院のように昼夜問わず見守れるわけがないのは明白である。

だが、地域には〝ちょっとした直感力の働く人〟が案外たくさんいる。
それは、単純計算ながら300万人の複数倍の人々の目である。統合失調症の有病率に照らしたとしても身近な生活圏内には必ず罹患者が居て、その複数倍の家族等が実数として存在しているのだ。
仕組みとしての地域支援、インフラ整備は不可欠。それはそれで大事なことに違いない。
だがしかし、ちょっとした直感力に優れた〝患者家族〟の力はたった今からでも有効機能するものであると同時に、地域を縦横無尽に網羅する。



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