統合失調症の症状への対応、抗精神病薬の副作用、精神科医との信頼関係、患者との関係性……。患者を支える家族の悩みは深く長期間に及びます。このブログは、妻の医療保護入院による夫の感情体験を書籍化後、支える家族にとっての精神疾患について、感じること考えることをテーマに更新しています。
著書 統合失調症 愛と憎しみの向こう側
患者家族の感情的混乱について書き下ろした本です(パソコン、スマートフォンなどで読むことのできる電子書籍)ブログ〝知情意〟は、この本に描いた体験を土台に更新されています
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統合失調症の発症 絶望という青く深い海にさがす希望のカケラ

人は絶望に包まれるほど希望を描くことができないと言う。
だが、希望とは絶望という青深い海の底に沈んだ状況に身を置くからこそ、描けるものではないか?

過去を描くことは簡単だ。
なぜなら、過去とは事実であり〝起こったこと〟の整理さえできるなら、書くことも話すことも思い振り返ることもできるだろう。
その一方で、未来とは書くことも話すことも思い当てることも難しいこと。
なぜなら、未来とは現在という根拠によって描かれるものだから。
希望が未来に在るものだと言うのなら、絶望という現在を根拠として未来を描くことは難しくも辛い作業だ。
けれど、絶望に包まれているからこそ描ける未来が在る。
そして、そこにある希望は尊い。


医療保護入院中の担当医からは、統合失調症は妥当な診断と適切な薬物療法によって大半の患者が良好な予後を維持できるが、その大半から外れるケースは一定に存在する……と聞かされた。大半から外れるケース。それは、次また次へと患者とのつながりを移動していく治療者にすれば、ひとつの事例であっても、家族にとってはそこから先の時間が進むことも進めることもできない深い絶望でしかない。

世の中にはいろんな病気があるだろう。それらを比較することによって絶望の深浅をはかることは不毛だ。だがひとつ言えることがある。
それは、人が人として狂ってしまった家族の姿を直視することは悲しみではなく哀しみなのだ。
そして、病的に弱った部分を見せられることと違い、世の中から追い詰められるような途方もない漂流感を味わう。……と、そんな気がする。


ある日の面会室。
重篤な患者がパトカーに乗せられて入棟してくることの多い、この病院の面会室。
世の中と隔絶されたような雰囲気を醸し出す独特の場所であるだけに、ここでならどんなに非社会的な行為であろうとも、むしろ不自然ではない気もする。
意味も無く走り回ろうが、とつぜん叫びだそうが、素っ裸になろうが……かまわない。
たまたま居合わせた他患者の家族に近寄ると、おもむろに彼らの前に直立し、不気味な様相でブツブツと唱え始める妻。
悪霊にでもとりつかれたような非人間的な有様。
ほんの少し身構えたかのような素振りで、他家族はこんな言葉をかけてくれた。
「お大事に……」
僕には妙に意味深に聞こえたが、直後、深い絶望に包まれた。
互いに傷をなめ合うような、あきらめ合うような、そんな絶望感だった。
そして面会を終えた帰り道、いっそ……除霊でもすれば嘘のように良くなるんじゃないかと本気で思った。
いや、本気ですがったと言う方が正しいだろう。

僕は絶望という青く深い海に希望のカケラを探していたはずだ。
絶望がなぜ青いか? それは現実に抗う青臭さの青であり、青臭さは愛だ。
希望とは絶望という青深い海の底に沈んだ状況に身を置くからこそ、描けるものではないか? と、再び思う。

僕が描く希望とは妻の笑顔だった。――記憶に残る病前の笑顔。
笑顔、それは世界共通、人類共通の〝人らしさ〟だ。


絶えず一定の発症率で推移する統合失調症。
今もどこかに、絶望の中で希望のカケラを拾い集めようとする、大半から外れた人々がいるだろう。
彼らはきっと、平静を装いながら心の中で青く深くよどむ海の底に患者の笑顔を探しているはずだ。
そして医療者は知るべきだ。大半から外れた事例のひとつひとつに忍ぶ、絶望の中で希望のカケラを拾おうとする家族の尊い作業を……。

家族の希望が未来の事実となることを信じたい。



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1 件のコメント:

  1. これ読んで涙が止まらない、書いてくれてありがとう。

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